2022年10月14日
森田成也
ある日、ネット記事を読んでいると、奇妙なニュースが目に飛び込んできた。タレントのヴァニラさんが「フランス人形になりたい」という強い願望を持っていて、総額で3億円も整形手術に費やしたというのだ。記事によると、ヴァニラさんは「私の中のフランス人形像がどうしてもあって、どんどんそこに近づいていきたいという思いがある」とのことで、「どうせフランス人形になれることはない、それを分かっててやってる」と話したものの、「でも近づけるならどこまでも近づきたい」と明かしたという。美容整形医師も「止める人が必要なんじゃないか」と述べている。
この人は心が「フランス人形」なのに、間違って日本人女性の体に生まれてしまったのだ、と誰かが言ったら、おいおい大丈夫か、という話になる。ましてや、それを認めないのは差別だとか、ヘイトだとか言い出したら、誰もがドン引きするだろう。そして、この人の願望のままに次々と高額で身体に負担のある整形手術を施すことが人道的に許されるのかと問う人も少なくないだろう。
しかし、これが、心が「女」なのに、間違って男の体に生まれてしまったという話になると、不思議なことに、ほとんどの人がこのおとぎ話を信じ、それを認めないのは差別だとか、法律や制度でそれを認めろと言い出し、そして実際にほぼそうなっている。しかし、心に本当に性別があるのだろうか? あるいは少なくとも、身体の性別と異なる性別が心に存在しうるのだろうか?
「心の性別」は存在するか
例が古くて申し訳ないが、『リボンの騎士』という手塚治虫の漫画では、主人公のサファイア王女は、神様が天国で間違って一つの体に「男の心」と「女の心」の両方を入れてしまったという設定になっている。今ならノンバイナリーとかツースピリッツとか言われることだろう。そして、最初に「男の心」を神様に黙ってサファイアに入れた天使のチンクが、罰として地上に落とされ、サファイアから「男の心」を取り戻して、普通の女の子にするよう命じられる。
この種の設定、すなわち心ないし魂が身体とは分離して存在しえて、別の身体に間違って入るというのは、最近のドラマでもよく用いられているし(たとえばアメリカドラマの『ラブ・リーガル』)、映画やアニメでは、男の子の心と女の子の心が入れ替わるというのは一種の定番だ(『転校生』や『君の名は』など)。しかし、これらはすべて漫画、ドラマ、映画、アニメの話であり、したがってわれわれはみなそれをあくまでもフィクションとして受容し消費している。
しかし、この21世紀にもなって、「心」というものが身体とは別に一個の実体として存在し、間違った身体に入りうるという想定(難しく言うと「心身二元論」の一バージョン)が、ドラマや漫画の中のフィクションとしてではなくて、ほとんどの人々に信じられているというのは、実に驚くべきことである。大手の新聞記事でも、トランスジェンダーについて、心の性別と身体の性別とが異なる人と説明されるのが普通だ。
しかし、性別というのはあくまでも身体の根本的な特徴に対してつけられた区別にすぎず(もちろんきわめて重要な区別だが)、心の状態とは何の関係もない。だから、われわれは、出生前から性別を判定しうるし、死んだ後でも性別が判断されうるし、1000年後に骨だけで見つかっても、科学的に性別が判定されうる。
それは年齢や身長、血液型などと同じく、純粋に身体の一定の特徴を表すものだ。「心の年齢」や「心の身長」「心の血液型」が存在しないのと同じく、「心の性別」なるものは存在しない。男として生まれたら、死ぬまで男であり、死んでも男である。自分が自分をどう思うか、どう感じるか、どうありたいと思うかは、客観的なものとしての性別には何の関係もない。これは唯物論と科学の基本的立場である。愚劣なポストモダニストやその同類たちは、この立場をしばしば「生物学的本質主義」と侮蔑的に呼んでいるが、それは、彼らが「生物学」についても「本質主義」についても何も理解していないことを示すにすぎない。
だから問題は、心に性別があるかどうかではない。そんなものは最初から存在しない。問題は、どうして、人々は「心の年齢」や「心の身長」、あるいは「心の血液型」を馬鹿げていると思うのに、「心の性別」と言われると、それはあるかもしれないと思うのかである。
人はなぜ「心の性別」というフィクションを信じるのか
この謎を解くカギが、いわゆる「ジェンダー」である。人々は古来から、客観的なものとしての性別(sex)をただ素直に認識するだけでなく、その性別に応じて異なった服装や振る舞い、装飾品、役割、言葉、等々を発達させてきた。このような、性別の違いによって社会的に割り当てられてきた社会的・文化的なものが「ジェンダー」と総称されるのだが、性別とジェンダーとは、常におおむね一致する形で存在する。それもそのはずで、客観的に認識できる性別に応じて異なったジェンダーが与えられ、しばしば強制されて来たからである(いま話題の『美とミソジニー』は、それが何よりも女性の従属性を明示するものであると主張しており、それは正しいと思うが、ここでは論じない)。
性別による身体的な相違はあらゆる文化と時代を横断して同一であるのに対して(人間という同一の種であるかぎり当然そうなる)、ジェンダーの具体的中身は時代と地域と身分によって大きく異なる。かつてヨーロッパの王侯貴族は男も化粧し、髪を長くし、派手でひらひらした服装を着ていたし、ハイヒールさえ履いていた。日本では、男もおしろいで顔を白くし、唇に紅を塗り、眉を剃って眉墨で描き、鉄漿(おはぐろ)をし、「女性的」な話し方をしていた。したがって、ジェンダーの特定の内容と性別との間には必然的関係など何もないことがわかる。女の子だから必然的に長い髪を望むのではなく、ある特定の時代と特定の文化においては、長髪が女性の髪型であるとみなされているからにすぎない。したがって、個々人によってそうしたジェンダー的規範から逸脱する男の子や女の子、あるいは逆の性別のものとされている格好や衣服に興味を覚える子どもはいくらでも存在しうる。
性別とジェンダーとのこの(社会的に強制された)一致と(客観的に生じうる)不一致との関係が、人々に「心の性別」を信じさせる一つの要因となる。ジェンダーが強力に文化を支配すると、人々は誰かの性別をその人がまとっているジェンダーで判断するようになる(とくに男性が女性を判断する場合にはそれが顕著だ)。マルクス主義者ならそれを一種の「物神崇拝」と呼ぶかもしれない。社会関係としての商品価値が実体化されて、商品の自然属性とみなされる現象がマルクスの言う「物神崇拝(フェティシズム)」だが、ここでは、社会関係としてのジェンダーが実体化されて、それが人間の自然属性として崇拝されるのである。
さて、ある男性ないし女性が、その社会において一般的であるとされている、それぞれの性別に沿ったジェンダーをまとい、そのように振る舞っているとすれば、認知は安定した状態にある。しかし、本来の性別とは反対のジェンダーをまとい、そう振る舞っている人を見かけたら、認知はバグを引き起こす。
そこで認知の再調整が必要になる。一つの方法が、性別とジェンダーとが一致していなくても別にかまわないと理解することだ。男が髪を伸ばしてもいいし、化粧してもいいし、スカートを履いてもいい、それは男の中の多様性であり、それを男の範疇から排除するのはよくないとみなすことだ。あるいは、女性でもズボンを履いていいし、髪を短くしてもいいし、化粧をしなくても構わない、とみなすことだ。実際、1960年代や70年代には、若い男も髪を伸ばし、若い女性もジーンズを履いていた。それは多様性の一種であり、それでもかまわないとするのだ。これが本来のリベラルの立場であり、だいたい1990年代ぐらいまではそうやって再調整されていた。
もう一つは、それと正反対の方向だが、ジェンダーでもってその人の「真の性別」を判断することだ。つまり、その人は実は心が女性であり、間違って男性の体に生まれてきた、だからその人を女性として扱うべきだという発想である。これがトランスイデオロギーである。心がジェンダーに等置され、身体が性別に等置され、そして前者を後者に対して優位な存在とみなす。多くの宗教では、身体は一時的な器、仮の姿で、不滅なのは魂(心)とみなされているが、そのジェンダー版がこのトランスイデオロギーである。これは、伝統的宗教に代わる、新しい21世紀の宗教であり、1990年代以降に欧米社会で支配的な流れとなった。それは、男の中の多様性を排除し、男性的でない人々を男性の範疇から排除しようとするし、逆に女の中の多様性を排除し、女性的でない人々を女性の範疇から排除しようとする。これこそ、真に「トランス排除」と名づけるべき立場だろう。
性別(sex)とジェンダーとは異なり、ジェンダーは単に社会的・文化的に押しつけられたものであるという本来のリベラルで科学的な立場から、ジェンダーこそが真の性別、真の実体であり、身体の性別はそれに従うべきである(もっと極端な人の場合は、身体にはそもそも性別はないとまで断言する)という非リベラルで非科学的な立場へと(リベラル派自身が)転換していったのは、それだけジェンダーの支配力が強いためであるが、それだけではない。
このジェンダーの支配力は、1960年代と70年代の世界的な動乱期には一時的に弱まったのだが、1980年代における新自由主義の勃興とその制覇とによって、再度強化された。長い髪や化粧や短いスカートやヒールの高い靴というジェンダー的規範が、1960年代や70年代よりもはるかに強く女性を支配するようになった。ポルノや売買春などの性産業が社会をより広く覆うようになり、社会構造の変革よりも個人の自由な選択が重視され、そして何よりも個人のアイデンティティが絶対視されるようになった。リベラル派がネオリベラル化したのだ。
この延長上に、現在のトランスイデオロギーの隆盛が存在する。トランスイデオロギーのこの繁栄には他にもなお重要な要因がいくつか存在するが(アカデミズムにおけるポストモダニズムの流行、グローバルな医療・製薬産業の利益、そして何よりもミソジニーの強力な支配力)、話が長くなるので、要因論はこれぐらいにしておこう。
GIDをどう見るか
では、いわゆるGID(性同一性障害)をどう考えるべきか。強力な性別違和や身体違和を小さい頃から、あるいは思春期を境に感じるようになる人々は昔から一定数存在していた。この原因はおそらく一つではなく、多くの原因が絡み合って起こっていると思われる。フランス人形になりたがった人のように、女性のような身体や姿に強烈にあこがれを持ち、自己の男性的な身体を死にたくなるほど嫌悪するようになった人もいるだろう(これは身体醜形障害の一種であると考えることもできる)。女性の場合には、女性の身体性によるさまざまな生物学的ないし社会的な制約への嫌悪や、性暴力ないし性被害の経験(あるいは性的なまなざし)が自己の身体を嫌悪させるようになったかもしれない。あるいは単に思春期における身体の大きな変化や精神的不安定さ、あるいは発達障害などのまったく別のものが関与している場合もあるだろう。
いずれにしても、それは複数の原因によって生じた複雑な現象なのである。ところが、その複雑性を無視して、本当は心が女なのに男の体に間違って生まれた(あるいはその逆)というわかりやすくて単純な(そして根本的に間違った)物語が信じられ、それを前提とした対処だけが推進され、それに異議を唱えるすべての人々が差別者扱いされているのが、現状なのである。
自己の身体を自分の自認する性別に似せるために、思春期ブロッカーや異性ホルモン剤を服用したり、身体に不可逆的な外科手術をしたあげく、実はそれが間違いだったと気づく人は後を絶たない。本来必要なのは、多様なアプローチにもとづく多様な調整や治療なのであって、けっして身体を不可逆的に改造したり、法的な性別を変えたりすることではなく、自己の身体とうまく折り合いをつけることである。しかし、この方向性は「トランス差別」だとか「転向療法」(もともと同性愛者を異性愛者に変えようとした疑似医療のことだが、今ではこの言葉が簒奪されて、自分を女性だと信じる男性をそのまま受け入れないと、転向療法だとされる)だとして最初からふさがれる。そして、トランジション(性別移行)をするときは大いにもてはやされ、勇気ある行動として扱われるが、それが間違いだったと気づいてデトランジション(脱トランス)する人々は裏切り者扱いされ、攻撃される。特定の信仰にもとづく行為のみが正しいとされ、それに反する行為はすべてサタンの所業というわけだ。
リベラル派や左翼全体を覆っているこの新しい宗教の支配は、いったいいつまで続くだろうか? スターリンの独裁と同じく、いったいどれほどの犠牲者とどれほどの社会的混乱をもたらしたら、人々はそれが間違いだったと気づくのだろうか。
2022年8月20日のFacebookより(後に部分的に修正)