フェミニズムからトランスジェンダリズムへ――キャサリン・マッキノンとその政治的移行(ショートバージョン)

森田成也

【解説】これは、もともと2023年8月1日にOn the Woman Question向けに英語で書いた論文の日本語版である。若干の修正があるが、内容はほぼ変わらない。これを大幅に加筆した拡張版(ミドルバージョン)は、Academiaの私のアカウントにアップしてある(分量的にショートバージョンの約3倍)。いずれ、より全面的なロングバージョンも発表する予定である。

「Woman is an adult human female」――ジェンダークリティカル・フェミニスト

「Are women human?」――キャサリン・A・マッキノン

 
 マルクス主義者である私がラディカル・フェミニズムの強い影響を受けるようになったのは、キャサリン・マッキノンの著作『Feminism Unmodified』を大学院生の時に読んだことがきっかけだった。もう30年も前の話になる。同書は1993年に日本語訳が出版された(『フェミニズムと表現の自由』、明石書店)。私はたまたまそれを古本屋で見つけ、買って読んだ。そこでは、ポルノグラフィが女性に対して与えている被害のひどさ、それがいかに女性を見る見方やその思考をも支配し、いかに女性を性的客体にし、いかに私たちの住むこの世界を作り上げているから明らかにしていた。この書物を読んで受けた衝撃は今でもよく覚えている。

 私はそれ以来、マッキノンの諸著作、諸論文をむさぼるように読み、彼女の理論に関する、あるいは彼女の議論に基づいた多くの論文を執筆し(その数は数十本にのぼる)、また彼女の論文や著作を翻訳した。私は彼女の議論から多くを学んだ。しかし、今や彼女は、ラディカル・フェミニストの代名詞的な存在から、ミソジニスト的なトランスジェンダリストへと変貌を遂げている。『Feminism Unmodified』の著者は、女性の定義を修正(modify)することによって、フェミニズムを修正したのである。

 2022年11月28日にオックスフォード大学において「トランスジェンダーの法と政治」に関する討論会が開催され、キャサリン・マッキノンが主要報告を行なった。それは後に、『サインズ』という雑誌に全文掲載された。その内容は実に驚くべきものであり、すでにこのマッキノン論文に対して、フェミニストからの批判がいくつか行われている。私もここにその批判を発表する。皮肉なことだが、私がマッキノンに対してこのような批判が可能になったのは、まさに彼女から学んだ理論のおかげである。

 マッキノンのこの論文は最初の1行から最後の1行に至るまで、間違い、嘘、詭弁、歪曲、論理の飛躍だらけなので、全面的な批判文を書けば著作1冊並みの分量になる。そこで、この論文に存在する膨大な問題のうち、ここでは3つの点に絞って論じる。

1、ジェンダークリティカル・フェミニストの立場は生物学的本質主義か?

 マッキノンの論文における基本的立場は2つの柱で成り立っている。「トランスジェンダリズムないしトランスイデオロギー運動に反対しているジェンダークリティカル(GC)フェミニストは生物学的本質主義である」という主張と、「トランス女性は政治的に女性である」という主張である。彼女にとって両者が不可分であるのは明らかだ。この恐ろしく単純な議論の、まずは前者から見ていこう。

  「女性を生物学的に定義する」?

 マッキノンは次のように述べている。

フェミニズムを標榜する哲学者たちは、「メスの性別(female sex)」から「女性的ジェンダー(feminine gender)」を経て、まっすぐ「女性(women)」へと、まるで動いていないかのようにすっとスライドし、最終的には「女性とは成人の人間のメス(adult human female)」であるという辞書的定義に回帰している。女性を生物学的に定義すること――成人とは生物学的な一定の年齢、人間とは生物学的種、メスとは生物学的性別――は、かつて生物学的本質主義●●●●●●●●と批判されたものだ。

 まず、マッキノンは、定義のレベルが根本的に異なることを理解していない。「女性」を政治的にであれ、文学的にであれ、詩的にであれ、哲学的にであれ、歴史学的にであれ、どのように定義しようと自由だが、そのような定義が可能になるためには、その定義する対象が、パンダでも人間のオスでもなく、人間のメスであることが特定されていなければならない。対象が特定されてはじめて、それ以外の政治的ないし哲学的定義が可能になるのである。このことは女性を生物学的存在に還元するものではさらさらない。

 たとえば、「人間とは何か」について、古今東西、無数の哲学者が定義してきたが(「考える葦」、自由な存在、理性の現実化、労働するサル、等々)、それでもその定義の対象となっているのが、ボノボでもなければチンパンジーでもなく、ホモサピエンスであることが前提となっていなければならない。

 実際にはマッキノンはこの論文でも(過去においてはなおさら)、意識的に女性の定義について論じる場面以外では、生物学的な意味での女性を念頭に置いて「女性」「女性の」という言葉を何度も使っている。マッキノン自身がトランスジェンダリズムなど本当は信じていないのだ。事実に真っ向から反する信仰はどうしても無意識に用いる言語において、維持することはできないのである。

 マッキノンを含むトランス派のほとんどは、実際には「トランス女性」を生物学的に定義している。つまり、彼らは、生物学的に男性である人だけが「トランス女性」になれることを確信しており、「トランス女性」であることの必要条件を生物学的男性に置いている。「トランス女性」であるためには、何よりも彼らは生物学的に男性でなければならない。生物学的女性は「トランス男性」や「シス女性」になれても、けっして「トランス女性」にはなれない。生物学的男性だけが「トランス女性」になれるのである。

  「成人の人間のメス(Adult human female)」

 マッキノンはこの引用の中で、女性を「成人の人間のメス(adult human female)」とする規定が辞書的定義に回帰するものであるとみなして嘲笑し、さらに別の個所では、「私たちは自分たちの政治を辞書から取ってくるのではない」とも述べている。

 たしかに、われわれは一般に辞書から政治を取ってくることはできないが、辞書的なことさえ否定する相手に対しては、辞書的定義は十分政治的に機能する。地球は太陽系の一惑星であるという辞書的定義は、天動説が支配的教義として君臨していた世界においては、十分に政治的であったし、それを公然と掲げることが弾圧の対象となっている場合には、それは死を賭すほどの政治的行為である。今日、女性を「adult human female」であるとする辞書的定義を掲げることは、死を賭したものではないにせよ、少なくとも雇用や人間関係や社会的評判や発表機会や身の安全を危険にさらす、すぐれて政治的な行為なのである。

 実は、かつてマッキノンはこのことを理解していた。マッキノンのある有名な著作は『女は人間か?(Are Women Human?)』と題されている。これはまったく辞書的なレベルの問いだが、それでも、女性がまともな人間扱いされていない社会においては十分に政治的な意味を持つのである。かつて彼女はそれを理解していた。今や理解しておらず、相手の主張を辞書的だとして嘲笑している。

 ところで、「女性は人間である」という命題は生物学的本質主義だろうか? もしそうでないとすれば、そこに「adult」と「female」という2つの単語をつけ加えたら、どうしてそれが突然、生物学的本質主義になるのか?

  「フェミニスト的還元にわくわくしている」?

 これとの関連で、マッキノンはさらにGCフェミニストに対して次のように述べている。――「右派に属する人々は、このフェミニスト的還元――女性を女性の身体パーツ(female body parts)に、できれば染色体や生殖器に還元すること――にわくわくしている。このように選択された諸性質は、性別の定義とされるものが何であれ、身体的であるだけでなく、身体的に変更することができないものだとされる。」

 いや、女性をその身体パーツに還元しているのはGCフェミニストではないし、そのことに「わくわく」しているのも右派でもなく、トランス活動家と左派である。「トランス女性」たちは「女性」を、その長い髪、赤いマニキュアの塗られた爪、豊かな乳房、丸みのあるお尻、ヴァギナなどに還元したうえで、それらのパーツを疑似的に自分たちの身体上に再現して、自分たちを「女」だと称している。つまり、彼らにとって「女性」とは、これらの身体パーツの単なる寄せ集めなのである。GCフェミニストはまさにそれを批判しており、女性は、男でも視認できる「女性的な」身体パーツの寄せ集めではなく、生物学的ないし政治的なあらゆる差異と特徴を含むトータルな存在だとみなしている。「トランス女性」が長い髪や乳房にこだわるのは、心が女性だからではなく、単に、男の目から見て、それらの身体パーツがわかりやすく「女性性」を表しているように見えるからにすぎない。

 そして、トランス派やそれに追随するリベラル派こそ、性産業の推進と商業的代理母制度の合法化を通じて、実践的に女性をその身体パーツや生殖器に還元することにわくわくしている。あるいはまた、「トランス女性」に配慮して、女性を「子宮のある人」「ヴァギナのある人」「胸乳提供者」「生理のある人」「子宮持ち」と呼ぶことにわくわくしている。彼らはその知的創意を凝らして、女性に代わる新しい概念を次々と生み出している。こうして、彼らは実践的にも概念的にも女性を身体パーツに還元している。それにもかかわらず、マッキノンはGCフェミニストにこの還元をなすり付けているのだ!

  「女性は私たちの身体によって抑圧されているわけではない」?

 さらに、マッキノンは次のように述べている。「女性は、実際には、私たちの身体によって従属したり抑圧されたりしているわけではない。私たちは染色体や卵巣から解放される必要はない」。

 まず、女性を生物学的に定義することを拒否しているマッキノンは、「私たちの身体」という言葉でいったい何を指しているのか? 「私たちの卵巣」と言っていることからして、この「身体」は明らかに「生物学的女性の身体」を指していると解釈するしかないが、もしそうなら――マッキノンの規定によれば――それは生物学的本質主義になるではないか。

 本来の問題は、「身体によって抑圧される」のその具体的な意味内容である。女性がその身体によって自然に●●●従属したり抑圧されたりしているとは誰も言ってない。だからといって、女性の抑圧に女性の身体が無関係だと言うのは明らかにナンセンスである。女性抑圧と女性特有の生物学的身体性とが無関係なら、どうして女性に対する搾取と抑圧の主要な形態が、レイプや買春やポルノグラフィや生殖機能の搾取のように、すべて女性の生物学的身体やその身体的特徴に関わるものであるのか? 生物学的にヴァギナが女性になく、男性にペニスがなければ、膣への挿入レイプは不可能であるし、女性に出産機能がなければ、それを搾取することもできない。子宮がなければ代理出産はできない。男性が女性の裸を従属的に描いたポルノグラフィに興奮するためには、女性の裸が男性のものとは違う生物学的特徴を持っていなければならない。「トランス女性」も女性の裸に似たものを自己の体に再現できるが、再現するためにはもともとの女性の身体が男性の身体と異なった形態で存在しているのでなければならない。問題は、女性の身体的特徴ゆえに自然に●●●従属や搾取が生じるとみなすのか、それとも、その身体的特徴が必要条件●●となって、歴史的に、したがって政治的に●●●●従属が生じるのかという点である。後者は生物学的本質主義ではなく、すぐれて政治的な議論である。

 女性固有の身体が抑圧の条件であるからと言って、その身体性からの解放が女性の解放であるという結論にはならない。男性が女性をレイプするためには、ヴァギナを含む女性の身体が必要であるが、だからといって、レイプをなくす運動がヴァギナをなくす運動であったことは一度もない。商業的代理母制度は、女性の生殖能力を必要とするが、代理出産をなくす運動が、女性の生殖能力をなくす運動であったことはない。自然的特徴を理由にして誰かを従属させたり、搾取したり、差別してはならないとする社会的規範が支配的になり、それを可能とする社会システムが成立すればいいのである。

 GCフェミニストたちは自己の女性的身体に誇りを持っている。その制約性と相対的不利さにもかかわらず、それをいささかもなくそうとは思っていない。女性のこの身体性こそ彼女たちにとっての精神的強さと誇りの源泉でさえある。ちょうど、黒人にとって肌の黒さが精神的強さと誇りの源泉であるようにである。この身体的特殊性を理由に自分たちを社会的に劣った存在とし、不平等に扱っているこの男性支配社会にGCフェミニストは怒っているのであり、したがってそれを変革しようとしているのである。

 マッキノンは、女性の身体性を理由に女性を差別し従属させるという男性支配社会のメカニズムを批判するのではなく、身体性と差別とは無関係だというように両者を切り離す。このことは逆に言えば、女性が身体的に不利であることを認めたら、女性の抑圧と従属に効果的に抵抗できないし、それらを廃絶することもできないと無意識のうちにマッキノンが思っていることを示唆している。したがって、「染色体や卵巣から解放される必要はない」というような批判は、実際にはマッキノン自身に向けられるべきなのである。

 この点で、実はマッキノンの立場は右派の生物学的決定論者の主張の裏返しなのである。生物学的決定論者は、「生物学的有利不利=社会的優劣」という等式に基づいて、後者を肯定するために前者を肯定する。それに対して、マッキノンは、この同じ等式を維持しながら、後者を否定するために前者を否定するのである。肯定と否定というように価値判断がひっくり返っているだけで、両者が有している論理構造は同じなのである。

2、「トランス女性は政治的に女性である」という命題は成り立つか?

 次に、このマッキノン論文の2本柱の2本目である、「トランス女性は政治的に女性である」という命題への批判に移ろう。マッキノンのこの命題は、第1に、「トランス女性」も「女性の生」を生きていること(客観的)、第2に、「トランス女性」が(一般の女性たちよりも)女性にアイデンティファイしていること(主体的)、という2つのことを根拠にしている。以下の引用文がその典型である。

必要条件ではないというのは、トランス女性は女性の生を生きている――そして、多くの場合、最悪のそれを生きている――からだけでなく、私が知っているトランス女性は、意識的に女性性を受け入れており、私が知っている出生時に女性に割り当てられた女性(いわゆる「生得的女性」)の大部分よりもはるかに女性にアイデンティファイしている(woman-identified)からでもある。

 
 第一の「トランス女性は女性の生を生きている」という命題への批判から始めよう。

  「トランス女性は女性の生を生きている」?

 ここで言う「女性の生」とはいったい何か? これが単なる同義反復か循環論法にならないためには、ここで言う「女性」は明らかに「トランス女性」(生物学的男性)を除く女性のことである。つまり、マッキノンは、一部の男性が「女性の生」を生きていると言っているわけだ。どうしてそのようなことが可能になるのか?

 実際には、「トランス女性」が生きているのは「女性の生」ではなく、彼らが想像する「女性の生」にすぎない。何をしたら「女性の生」を生きることになるのか? 髪を長くして、化粧して、乳房を大きくして、ブラジャーをして、スカートを履いて、生活することか? もしそうなら、マッキノンは、女性をそのようなパーツや服装(社会的ジェンダー)に還元していることになる。現実の女性の生から「女性の生」なるものを抽象化して、それを男性でも生きることのできる単なる着ぐるみかハウツーのようなものに変えることは、女性の生を徹底的に侮辱し客体化することである。もしそうでないなら、「女性の生を生きる」とは具体的に何を意味するのかを言わなければならない。

 もしかしたらそれは、女性のように性的に虐待されたり客体化されたりすることか? だがその場合でも、女性として生まれていない男性にとって、それらが持つ意味は、女性として生まれた人々と同じではないし、ありえない。たとえ男からレイプされたとしても、その意味も結果も男女でまったく違う。妊娠可能性を別にしても、そうだ。そもそも男性には膣がないので、膣に挿入される経験をすることは絶対にない。その他、いかなる経験も、女性の経験と似ている側面があるにしても、けっして同じではない。ゲイ男性やストレートの男性がレイプされても、彼らが「女性の生」を生きることにならないし、彼らを女性にしないのと同じである。

 男と女はけっして同じ生を生きることはない。生物学的にそうであるというだけでなく、政治的にもそうだ。それが、ジェンダー・ヒエラルキーの意味することである。

  「女性たちの大部分よりも女性にアイデンティファイしている」?

 次に、マッキノンが知っている「トランス女性」は彼女が知っている「女性たちの大部分」よりも「ずっと女性にアイデンティファイしている」という命題への批判に移る。

 まず、マッキノンが個人的に知っている「トランス女性」がどれほど多かったとしても、「トランス女性」全体の0.0001%程度であろう。トランス全体が人口の0.6%程度だと見積もられているので、「トランス女性」を0.3%だとすれば、世界人口80億人にあてはめると、約2400万人だ。マッキノン個人が24人もの「トランス女性」を個人的に知っていると仮定しても、彼女が知っている「トランス女性」は100万人に1人ということになる。そのようなごくわずかな個別事例をもって、あたかも「トランス女性」全体がそうであるかのように言うのは論理の著しい飛躍であるし、それは個々の事例でもってその個人の属する属性全体を判断する典型的な本質主義である。

 しかも、マッキノンが実際に知っているのは、「トランス女性」の表面的な姿にすぎない。マッキノンほどの大物のフェミニストと会う時には、DV男や連続レイプ犯でさえフェミニスト的に振舞うことだろう。マッキノンは、「トランス女性」が自分に見せるごく表面的な姿、そして「トランス女性」が書く粉飾だらけの文章を読んで、「トランス女性」のことを理解した気になっているのである。

 その一例として、マッキノンがこの論文で自分が学んだトランス理論家として肯定的に取り上げているジャン・モリスの例を見てみよう。マッキノンは彼の回想録『コナンドラム』(邦訳は『苦悩――ある性転換者の告白』立風書房、1976年)を参考文献として挙げている。モリスはこの回想録の中で、自分の「性転換」について妻も子供たちもみな理解し、自然に受け入れてくれたかのように書いている。しかし、実際にはそれと正反対だった。彼の娘スキ・モリスが、父が死んだときに追悼文を発表しているが(『サンデー・タイムズ』2022年12月10日)、その中で、父の性転換のことがまったく理解できなかったし、大人になるにつれてますますできなくなったと書いている。回想録そのものについても、次のように述べている。

 大人になるにつれて、私はさらに混乱した。1974年に出版され、『サンデー・タイムズ』紙に連載されたジャンの回顧録『コナンドラム』を読んだが、ストーリーが私にはまったく合わなかった。今、ジャンの本を読み返すと、場所の描写を除けば、ジャンの話はほとんどファンタジーだという結論に達した。…

 『コナンドラム』の中で、ジャンは私の姉、ヴァージニアの死について書いている。ヴァージニアが入院していたとき、母とジャンは一緒にベッドに横たわり、涙を流しながら手をつないでいたと書いている。ジャンはその時の「大きな月」、ナイチンゲール〔美しい声で鳴くことで有名な鳥〕が「まるで召される天からの声」のように歌っていたこと、2人は眠りに落ちるまでその声に耳を傾け、「朝になると、子どもは逝ってしまっていた」とジャンは書いている。

 だが母が私に話してくれた事実はこうだ。姉が病院で死にかけていたとき、ジャンは母と一緒に見舞いに行くことを拒んだ。当時、病院では母親が子供と一晩ずっといっしょにいることは許されていなかった。母がどんな苦痛を味わっていたかは想像もつかないが、その夜、そもそも母が眠れたかどうかはかなり疑わしい。しかし、ジャンの言葉には、その時のこともその後に関しても、母の感じた痛みに対する理解を示すものは何もない。

 さらに、娘のスキ・モリスは父親について、「ジャンに女性らしさを感じたことはない」と書いている。彼は娘にとって女装した男にすぎなかった。ジャンの女性観は極めて保守的で、女は結婚し、子供を産み、家庭を守るべきだと信じており、娘にそれを押しつけようとした。ところが、彼自身は、女性を自認して以降も、家事育児はいっさい妻に任せ、料理を作ったこともなければ、掃除機をかけたことさえなかった。子供に愛情深く接したこともなく、それどころか、4人の子供たちに冷たく当たり、とくに娘をことあるごとに貶め、いじわるをし、それは死ぬまで続いたという。

 ジャンのふるまいは典型的に性差別的男性のそれである。面倒くさいことはすべて妻に任せ、妻にフリーライドしながら、自分はジャーナリスト、歴史家としての仕事にまい進し、立派な名声を獲得した。ただそれを女性っぽい姿(ドレス、化粧、長い髪)でやっただけなのだ。スキ・モリスは父親が本当に女性になりたかったのかどうかにも強い疑問を抱いている。「女性になること」は彼の自己実現の一手段にすぎなかった。これは、遅れてトランスするいわゆる「トランス女性」の一典型である。また、娘は父親が「女性のために絶対に何もしなかったことは確かだ」とも語っている。これではたして女性にアイデンティファイしていると言えるだろうか。

  ミソジニーとポルノグラフィを通じたアイデンティフィケーション

 そもそも、「トランス女性」は、とりわけオートガイネフィリアに分類できる人々(「トランス女性」の大部分はおそらくそうだ)は、「女性にアイデンティファイしている」のではなく、女性の長い髪や化粧、赤い唇、女性のドレスやスカートや下着、女性の豊かな乳房、女性のすべすべの肌、女性的な振る舞い(男が考えるそれ)にアイデンティファイしているにすぎない。つまり、女性の外面、女性の装飾、女性のステレオタイプにアイデンティファイしているにすぎない。

 「トランス女性」が想像し理解する「女性」それ自体も、――マッキノンがこの論文で用いている表現に従うなら――「男性支配社会が作り出し、私たちに投影し、私たちに帰属させるミソジニー的な意味」を濃厚に帯びたものに他ならない。その種のアイデンティフィケーションの度合いが平均的女性より高いからといって、彼らをいささかも女性に近づけはしない。ところが、なにゆえかマッキノンは「トランス女性」について語り始めると、あたかも、彼らだけが例外的に、これらの「ミソジニー的意味」の構造を飛び越えて、女性を直接に見、知り、ダイレクトにアクセスし、アイデンティファイできるかのように論じるのである。女性に対する人々のものの見方を強力に支配しているはずのジェンダー・ヒエラルキーはどこかに消え失せ、無規定な主体としての「トランス女性」と透明な客体としての女性がただ向かい合い、前者が後者にアイデンティファイするというわけだ。

 そして、この種の「アイデンティフィケーション」の過程において最も強く関与しているものの一つは、ポルノグラフィや売買春などの性産業である。この点の理解はまさにかつてのマッキノンのポルノ論と合致する。彼女のポルノ論の独自性はまさに、男性は何よりもポルノグラフィを通じて女性を見、知り、理解するのであり、したがって男の「女性」像はポルノグラフィによって構築されたものだというものだ。このことはまさにこの「トランス女性」にこそあてはまる。「トランス女性」は、ポルノの視聴を通じて、とりわけ、特殊な女体化ポルノ(シシーポルノや「ふたなり」)や、日本のポルノアニメを通じて、また買春の体験を通じて、女体化願望を持つ。そして、女体化をしていく過程においても、何よりもポルノグラフィや性産業における女性たちの振る舞いから「女性的なもの」を学ぶ。

 世界で初めて性転換手術をしたとして有名なリリー・エルヴェを描いた映画『デンマークの少女』(邦題『リリーのすべて』)においても、主人公の男性は、遅刻した女性モデルの代わりにストッキングを履いたことで女体化願望を持つが、彼が女性的な振る舞いを学んだのは性産業の中の女性の男性向けパフォーマンスからだった。彼には妻がいたのに、普通の女性であった妻からは学ばず、性産業の中の女性たちから学んだのである。だが性産業の女性たちの「女性的」ふるまいはそもそも男の妄想に沿ったものであり、それを誇張したものにすぎない。まさに、リリーは、男が妄想する女らしさを演じる女性から「女性性」を学び、それを自分が演じて、他者に対して自分は「女性」であるとアピールしたのである。そして、この種の「トランス女性」を見て、マッキノンは、彼らは女性にアイデンティファイしているのだから、女性であると宣言する。こうして、いっさいが、ポルノグラフィと性産業が作り出した世界の中でぐるぐる回っており、今ではマッキノン自身もこのポルノ化された世界の中の住人と化しているのだ。

  「トランス女性は政治的に女性」?

 さて、以上を踏まえて、マッキノンはこの論文における唯一オリジナルな命題である「トランス女性は政治的に女性である(Trans women are, politically, women)」という結論を引き出している。しかし、単なるアイデンティフィケーションの行為を通じて、支配的性階級に属する人が従属的性階級に移行することができるのなら、ジェンダー・ヒエラルキーなるものはまったく無力であるか、そもそも存在しないということになるだろう。これは自分自身の理論を完全に否定するものだ。

 だが、ここで言う「政治的に」とはいったいどういう意味か? それは単なるレトリックにすぎず、何の論理的つながりも合理的推論も示すものではない。こんな雑な論理で「トランス女性」を政治的に女性にカテゴライズすることができるなら、マッキノンを「トランス女性」や「男性」にカテゴライズすることも十分可能である。なぜなら、彼女は、「トランス女性」を受け入れない女性たち(おそらく女性の大多数がそうだ)やGCフェミニストを嫌悪しており、明らかに彼女らにアイデンティファイしていないし、「トランス女性」による被害者たち(トランス活動家に恫喝され殴られたGCフェミニスト、「トランス女性」にメダルを奪われた女性アスリート、女子刑務所におけるレイプ被害者や、トランス活動家によって惨殺されたレズビアンカップル、等々)にアイデンティファイしていないし、安直な性別移行によって不可逆的な被害を受けている少女たちにもアイデンティファイしていないのだから、そして、男性である「トランス女性」に著しく共感し、彼らを積極的に受け入れ、平均的女性よりもはるかに彼らにアイデンティファイしているのだから、マッキノンは政治的には「トランス女性」であり、あるいはもっと言えば、彼女は政治的には「男性」であるとさえ言える。

 また、もし「トランス女性」が政治的にのみ「女性」にすぎないのなら、政治的考えに沿って区分されたわけではないトイレや更衣室やスポーツやシェルターや刑務所などにおいては、「トランス女性」は、その身体性別ないし生物学的性別に基づいて、男子側を使うべきだろう。右翼のトイレと左翼のトイレが存在しないように、そして、シェルターが政治的立場によって被害者を選別しないように、「政治的女性」には身体的女性用の施設を使ったり、女子スポーツに参加したりする権利はない。彼らはリベラル・フェミニストの集会やLGBTの催しなどにおいて「政治的女性」として参加すればよい。

3、なぜマッキノンはトランスジェンダリズムに屈服したのか?

 以上見たように、マッキノンはこの論文において、「トランス女性」という名の男性を女性カテゴリーと女性領域にねじ込むために、フェミニズムの基本的立場を投げ捨て、トランスジェンダリズムに屈服してしまっている。だが、なぜラディカル・フェミニズムの代表的人物とみなされていたキャサリン・マッキノンはこれほど惨めにトランスジェンダリズムに屈服し、男性権力の侍女と化したのだろうか? それにはいくつかの理由が考えられる。

  生物学フォビア

 まずもって考えられるのは、彼女の年来の生物学フォビアである。彼女はこの論文において過去の自分の理論のほとんどすべてを放棄したが、過去から継続している面もある。過去の彼女との連続性がかろうじて見て取れるのは、彼女の年来の反生物学的立場である。生物学フォビアと言ってもいい彼女のこの反生物学主義は、女性身体の生物学的構造を徹底的に利用し搾取しようとする男性権力の核心をつかみそこない、その新しい運動形態たるトランスジェンダリズムの本質を理解しそこねる結果になっている。

 この点でマッキノンは、アンドレア・ドウォーキンとはっきり異なる。ドウォーキンは、女性身体のリアリティを徹底的に生々しく強烈に語り、その植民地化を男性権力の主要な衝動と喝破していた。それに対して、法学者であるマッキノンは、たとえ女性の抑圧や搾取について語っている時でも、女性身体の具体性について生々しく語ることはなく、どこか抽象的なままだった。このような立場が、時を経て、今日の政治的転向へとつながる一つの要因になったと考えられる。

  内面化されたミソジニー

 もう一つはマッキノンが以前から深く自己のうちに内面化していた女性嫌悪とミソジニーである。マッキノンのこの論文の全体から強烈に受ける印象は、大多数の普通の女性たちの利害を代表するGCフェミニストに対する彼女の侮蔑と嫌悪である。「トランス女性」や「トランス理論家」に触れるときには、「新しい洞察力ある方法で」「素晴らしい文献」「フェミニスト政治に新しい光を投げかける」「真に勇敢な」「刺激的で洞察力豊かな説明」等々という賞賛的言葉が常に伴うのとは対照的に、GCフェミニストに言及する際には、「反トランスの自認フェミニスト」「フェミニズムを標榜」「女性の身体パーツのフェミニズム」「フェミニストのトランスフォーブ」「反トランスフェミニスト」「反トランス的偏見」「反トランスのトイレパニック」等々、等々と侮蔑的な表現を何度も何度も用いている。

 GCフェミニストに対する彼女のこの憎悪は、この論文における次の2つの記述にとりわけ顕著に示されている。一つは、「フェミニストのトランスフォーブ」が存在する理由について説明しようとした次の一文である。

フェミニストのトランスフォーブの多くが、女性のジェンダーロールやステレオタイプにトラウマを持ち、身体的、心理的に、あるいは人生の野心において、それに適合しなかったことは明らかである。彼女らは女性として受け入れられ、評価されることに苦労したのに、一部のトランス女性がやすやすと女性として受け入れられていることに憤りを感じているようである。

 これは真に驚くべきインセル的主張である。つまり、GCフェミニストは「トランス女性」に嫉妬していると言いたいのだ。何かに対するフェミニストの批判を「女の嫉妬」に還元して説明する仕方は、ミソジニスト、インセルに典型的なものだ。フェミニストがポルノを批判すると、美しく官能的で男にちやほやされるアダルト女優に不細工なフェミニストは嫉妬しているのだと言われる。女性の参政権のために闘ったサフラジェットも、男に愛されない年増の女の欲求不満だと言われた。この古典的なミソジニー的主張がよりによってマッキノンによって繰り返されるとは!

 もう一つ、彼女の女性嫌悪、フェミニスト嫌悪を顕著に示すのは、いわゆる「TERF」について語っている以下の部分である。彼女は次のように述べる。

私はTERFという言葉も使わないが、それはこの言葉を貼られた人たちがトランス排除的でないからではない。彼女たちはトランス排除的だ。そうではなく、私は彼女らのフェミニズムにいかなるラディカルさも見出さないからであり、トランス・フェミニズムの貢献であるものをそういうものとして認めようとしないこと、そしてトランスミソジニーに自ら関与しようとしていることに困惑しているからである。

 マッキノンが「TERF」という言葉を拒否するのは、トランス活動家たちがまさにその言葉を使って、GCフェミニストや女性たちを罵倒し攻撃しているからでもなければ、「kill TERFs」や「punch TERFs」や「fuck TERFs」のように、直接的であからさまな暴力と性暴力の言葉として用いられているからでもなく(これらについては言及さえされない)、罵倒され攻撃されている相手が「ラディカルではない」からだというのだ! 暴力男が妻を「このビッチめ」と言って殴っているときに、ある「フェミニスト」がやって来て、男が彼女を殴っていることはいっさい非難せず、「私は『ビッチ』という言葉は用いません。なぜなら、私は彼女にいかなる性的なものも見出さないからです」と言うようなものだ。

 だがマッキノンは今なおラディカル・フェミニストなのか? 残念ながらそうではない。それは、彼女がラディカルではないからではない。男の一部を女のカテゴリーに加え、女子刑務所にレイプ犯の男を入れることさえ擁護し、子供の性別移行をも推進したりしている点で、彼女は極めてラディカルである。われわれが彼女をラディカル・フェミニストとみなさないのは、彼女のトランスジェンダリズムのうちにいかなるフェミニスト的なものも見出さないからである。

  「男性のいる何らかの集団の一員として自分を見る方がより尊厳がある」

 彼女がこれほどまでに無残にトランスジェンダリズムに移行した原因のヒントとなることが実はこの論文の中で彼女自身によって語られている。彼女は、女性の多くが女性にアイデンティファイしていない理由として、「男性のいる何らかの集団の一員として自分を見る方がより尊厳があるからだ」と述べている。マッキノンが「トランス女性」という名の男性を女性カテゴリーに入れようとした心理もまさにこれである。マッキノンは最初このセリフを1991年の論文で述べたのだが、それをここで繰り返しているのは驚くべきことだ。

多くの女性たち……が「単なる女」ではありたくないと思っているのは、……「単なる女性」というカテゴリーのうちには、役立たずの白人女のイメージが、すなわち、困難にぶつかったときの最初の反応が泣くということでしかない女のイメージが付きまとっているからではないだろうか。ここで私が感じるのは、人々は、白人女性……を含む集団の一部であるよりも男性を含む何らかの●●●●●●●●●集団の一部である方が尊厳を感じられる●●●●●●●●●●●●●●●●●●ということではないだろうか。どうやら、自分に対してなされた抑圧が男性に対してもなされる場合には、劣等者としてではなく被抑圧者として認められやすいと思われているようだ。ある集団が人間だと推定されるようになると――その中に男性が入っているとそうなりやすいのだが――、被抑圧男性は人間としての基準からみて抑圧されていると認識される。だが女性が単なる女性――存在論的被害者――だと、そもそも被害者ではないとみなされるのである。(『女の生、男の法』下、2011年、19~20頁)。

 彼女が優れたラディカル・フェミニズムの理論家であった1991年にこう語っていたのだ。こう語ったとき、彼女はもちろん、女性というカテゴリーの中に生物学的男性が入っていないことを暗黙の前提としていた。しかし、今では、彼女は、女性というカテゴリーそのものに男性を含めており、マッキノン自身が、自分を「男性を含む集団」の一員とみなし、そのことによって自分たちが「より尊厳ある」存在になったと感じているのである。

 彼女自身が実は心のどこかで「単なる女」、とりわけ「困難にぶつかったときの最初の反応が泣くということでしかない」「白人女」を侮蔑し、男より劣る存在とみなしていたのだ。だからこそ、男の一部が自分は女性だと称したとき、彼女はそれを喜んで受け入れ、歓迎したのである。マッキノンは今回スピーチの冒頭で、「トランス女性」について「男性性を捨て去り、女性であることに惹かれ、それを受け入れる人々」と述べているが、実際には、彼女が彼らを歓迎し受け入れたのは、彼らが「男性性を捨て去った」からでも、「女性であることに惹かれ、それを受け入れた」からでもなく、その逆に、彼らが「男性性」をしっかりと保持していたからであり、彼らを女性に含めることで、それが女性の中に持ち込まれると考えたからである。それゆえ、逆説的に聞こえるかもしれないが、マッキノンが「トランス女性」を女性とみなしたのは、彼らが女性だからではなく、まさに男性だからである。

  フェミニズムからトランスジェンダリズムへ

 以上述べた点は、またしても、マッキノンのポルノ論を踏まえればいっそう明瞭になる。すでに述べたように、多くの「トランス女性」はポルノグラフィを通じて「女性」を知り、「女性」を学び、「女性」にアイデンティファイする。彼女のポルノ理論によれば、ポルノグラフィは性差別とミソジニーの理論と実践である。つまり、「トランス女性」はポルノを通じたアイデンティフィケーションの過程を通じて女性憎悪を学び、ますますそれを血肉化する。そして、彼らがどれほど女性をまねても、どれほど自己の身体のうちにホルモンや外科手術でその外形を「再現」しても、けっして女性そのもの(すなわち、「adult human female」)にアクセスできず、それになれないことを知っており、そのことが彼らの女性憎悪をますます昂進させる。「トランス女性」とトランス擁護者たちが、なぜあれほどまでに、「adult human female」にアイデンティファイしているGCフェミニストを憎悪し暴力的に攻撃するのか、その謎を解き明かすカギがまさにここにある。

 以上の点から見るなら、マッキノンが生物学的なものを嫌悪する真の理由も明らかになる。彼女が生物学的なものを嫌悪するのは、生物学そのものに何らかの嫌悪感を彼女が持っているからではもちろんなく、女性の生物学的身体を嫌悪し、その生物学的な不利さを嫌悪し、その脆弱さを嫌悪しているからである。つまり、彼女の生物学フォビアは、彼女の内面化されたミソジニーの現われなのである。ここにおいて、生物学的なものは優れて政治的な意味を帯びる。マッキノンは、生物学的なものは生物学的なものであるがゆえに政治的ではないと単純に考えた。実際にはその逆であり、生物学的なものは生物学的なものであるがゆえに、すぐれて政治的なのである。ここに生物学と政治学の弁証法が存在する。かつて第2波フェミニズムにおいて「個人的なものは政治的である」と語られていたのとパラレルな意味で、「生物学的なものは政治的」なのだ。

 かつてアンドレア・ドウォーキンは、『右翼の女たち』の中で、「フェミニズムが憎悪されているのは、女性が憎悪されているからだ」と述べたが、それはまさにマッキノンにもあてはまる。マッキノンがGCフェミニストを憎悪しているのは、「adult human female」を憎悪しているからである。

 もちろん、この性差別社会では、マッキノンにかぎらず、すべての人が大なり小なりミソジニーを内面化している。それに意識的に抵抗しつづけないかぎり、簡単にミソジニーに支配される。トランスイデオロギーは、この抵抗力を最も有していると思われているフェミニストからそれを奪い取る独特の力を持っている。このイデオロギーは次のものにもとづいているからだ。

1.かわいそうな男性の苦境に同情し彼らを保護しなければならないという、女性に強く内面化されたジェンダー的規範。

2.マイノリティの人権は無条件に擁護しなければならないという左派的な規範。

3.トランス女性は女性であり、しかもより弱い女性なのだから、同じ女性として連帯すべきというフェミニスト的な規範。

 これら3つが複雑に絡まって、ミソジニーに対するフェミニストの抵抗力を巧みに解除したのである。

 そして、アカデミズムや主流世界の中でマッキノンの地位がしだいに高まるにつれ、周辺化された極端主義者から国連や国家機関にも受け入れられる著名人になるにつれ、マッキノンのこの深く内面化された女性憎悪はついに彼女のフェミニズムを凌駕し、打ち負かした。こうして、彼女はトランスジェンダリズムの信奉者になったのである。

2023/7/23