泥仕合に陥らずに

石上 卯乃

 私は、ツイッターでトランスジェンダリズムに疑問の声を上げるたくさんの女性の声をこれまで見てきました。私は、そのうちの一人としてWomen’s Action Networkに投稿しました。だから投稿後に私に言われたことはそのまま、その多くの女性たちが言われたのも同じことだと思っています。そして #石上卯乃は私です と付けてツイートしてくださった方たちの多さに、私は励まされました。

 私たちに向けられたのは、「自分を差別者と認める差別者はいない」「差別している自覚がない差別者も多い」といった言葉でした。「身体的女性は人類の半分以上だ、だからマジョリティだ、『トランス女性』は数が少ないマイノリティだ、社会はマイノリティの権利を認め擁護すべきだ」、「女性と『トランス女性』の間に一切の隔てをおいてはならない、同じ女性として扱うべき」というのが、私たちを責め立てる人たちの側の主張でした。

 でも考えてみてください。女性がマジョリティならば、私の書いたこと、つまり、身体的女性の安全と安心のために女性専用スペースの利用をどうしたらいいのか一緒に考えてほしい、という言葉が、何の抵抗もなく世の中に通るはずです。投稿する前に私は、ここまで大騒ぎになるとは思っていませんでした。でも問題視され、騒ぎになりました。ならば、ここまで声を聞いてもらえない存在である身体的女性、社会的な力を持たない身体的女性を、マジョリティと呼べるのでしょうか?

 「お前が間違っているから自分たちが声を上げているのだ、お前は依然としてマジョリティだ」という意味のことを言われても、私たちに向けられた声は、minor=力のない側からの声だとは、どうしても思われないのです。メディアも、政党も、私たち身体的女性の声を聞いてくれないという絶望にあるときに、自分たちをmajor=力のある者=マジョリティだとはどうしても思えないのです。

 Female Liberation Japanに投稿するにあたって私が声を大にして言いたいのはこのことです。マジョリティ・マイノリティはたんに数で決まるのではなく、社会的な力をどれだけ握っているかによって決まる、ということです。

 それは近代史現代史を振り返れば明らかです。アパルトヘイト下の南アフリカでは、黒人が約70パーセントでしたが、彼らはマジョリティだったとは言えません。国際的な応援も受けての反アパルトヘイト闘争を長年闘わねばならなかったマイノリティでした。イラクではシーア派のほうがスンニ派より多数ですが、彼らは社会的実権を握っているわけではありません。

 日本において女性は、数は多くとも、社会的地位、経済力、政治の場での発言力、どれをとっても男性よりも力がありません。私たち身体的女性が声を発するのは、このように不利なポジションからになるのです。女性の声が世の中に通りにくい状況になっていること、つまりminorな存在になっていること、それをまず認識しなくては何も始まらないのではないでしょうか。

 マイノリティの言うことが擁護されるべき、だからトランスジェンダーと女性のうちどちらがマイノリティなのかポジションを取り合う、…ということなのであれば、それは馬鹿げた泥仕合にしかなりません。私は、そして多くの女性たちは、いま陥りかけているそのような局面から抜け出したいのです。

 そのためにも私は、このサイトの「基本的な考え方」に賛同して、自分が思うところを堂々と述べていきたいと考えています。

 日本国憲法の前文からの言葉です。「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。 」

 トランスジェンダーの方たちには、安心して安全に過ごせる場が必要です。それと同時に、私たち身体的女性が、これまでと同じレベルで女性専用スペースにおける安全と安心を望むことは、憲法からみても大切にされていることなのだ、と私は信じています。

 社会とはどうあるべきなのか、人が人生を通して生きる場である社会は何を大事にすべきなのか、そのようなスケールで、政治家を含む皆さんがこの問題を考えていってくださることを、切に願っています。