笙野頼子
私が長年批判対象としていた政治家が昨日亡くなりました。
今、呆然としています。現実に起こった事なのに未だ、感触がありません。あまりにあっけない死だった事に驚いています。どんな偉い人でも警察は守らないのだと、ここはTPP後の、国家が溶けてしまった後の世界なのだと結局、そう思いました。
それと同時にこれが一般的な死であるという事、死はどうしようもないという事だけは今まで遭遇した死と同じように、もう把握出来ました。しかし、……。
生きて解明するべき、責任をとるべき事が彼にはあったのに。
彼は私にとって国内で最大の批判対象でした。先日名誉毀損の被告として私が二審勝訴した文章の中にも、その批判はやはり含まれていました。実は今から発表するこの文章の初稿にも彼への批判が案外に含まれていました。
でも亡くなったと知った時、全て削除しました。
このような時に、私が何を言うだろうかと、さぞ罵倒をするだろうと期待するむきがあるかもしれません。つまり、私はそんな事はしないという事です。
むしろ彼についての批判をしばらく休みます。理由?
ひとつにはこれまでした批判は、生きている相手にしか届かない内容たったから、もうひとつは本人が亡くなった直後だから。
階級格差は生命の格差を作りだします。しかし死という事実そのものは平等です。さらに、……。
生きている権力者に言う言葉と死んでしまった権力者に言う言葉は違います。
この人物について自分なりの総括は絶対に書こうと思います。別に歴史的でもなく個人的な文章にすぎないけれど。少しだけ時間が必要です。
私はひとりの難病患者として、この難病患者でもある権力者を、その医療政策において長年、批判してきました。
別に本一冊を書くわけではありません。一市民から見た極私的戦闘的エッセイです。なので今は、……というと?
死んだ時にここぞと罵倒をしたり、亡くなった直後に彼の遺志として改憲を叫んだり、そういう事をする両方の人間を私は好みませんので。
以上
七月十日