「TERFめ!これは黒人差別と同じだ!」がどんなふうに的外れであるか


Twitter アカウント名 しまうま


 私は石上卯乃さんの考えに賛同します。私から見るとツイッターで猛威を振るっていたのは「トランス排除の言説」ではありません。
Trans Rights Activistsおよび彼らに与する学者たちによる、「女性専用スペースの安心と安全」を訴える女性たちへの大バッシングでした。それらのバッシングは、人種差別・民族差別に関心をお持ちの人たち、インテリとよぶにふさわしい人たちからさえも行われていました。

 なかでも私の関心を引いたのは、「”TERF”の言うことはアメリカの黒人差別と同じだ」という一群の言葉でした。白人と同じトイレを使えなかった、バスの座る席も分けられていたアメリカ黒人の現代史については、以前から関心があり、本も読んでいました。ですので、この「”TERF”の言うことはアメリカの黒人差別と同じだ」という言葉が果たして実情に合っているのかどうか、私なりに考えてみました。

 今回、このエッセイを書くにあたって何冊か読み返しましたが、もしもアメリカ現代史の解釈について大きく異なっている箇所がありましたらご指摘ください。なお以下の「黒人」「白人」は、例外的存在を除く大多数の、という意味になります。

【アメリカの黒人差別の歴史的経緯】
アメリカに黒人奴隷制度があった時代、奴隷だった黒人女性は、奴隷所有者である白人男性から性暴力をふるわれることが日常でした。奴隷所有者の男性は、黒人女性に産ませた自らの子どもを黒人奴隷とし、財産としました。彼らにとってレイプは資産を増やす方法でした。その結果、現在のアメリカの黒人のほとんどに白人の遺伝子が入っていることになりました。黒人奴隷は財産として売り買いされ、夫婦も親子も無情に引き離されてきました。
その一方で、この黒人差別体制のもとで、白人が性的な妄想を黒人に投影することが長く行われてきました。差別して抑圧しているからこそ、相手をことさらに悪魔化してきました。その最たるものが”野卑な”黒人男性は”高貴で美しい”白人女性を性的に狙っている、というものです。映画『国民の創生』『風と共に去りぬ』での描写をみても明らかです。KKKなどは、だから人種は分けねばならない、と固く決意して、多くの黒人をリンチにかけて殺し、黒人をかばう動きを見せた白人たちもまたリンチを受けて殺されていきました。
白人にとって、黒人を同じ人間だと考えると自分たちがしてきたことがどれだけ人倫にもとることなのかという事実に向き合わねばならないから、黒人を同じ人間だと考えることを徹底的に避けてきました。
だから、奴隷解放後、1950年代に至っても、黒人が狭く汚いトイレしか使えなくても、水飲み場を別にされても、それらが数も少なく不便なところに設置されていても、白人たちはそのことに心の痛みを感じませんでした。


つまりこういうことです。
1.問題は白人の側にあった。
2.白人が黒人を迫害してきたことが問題だった。
3.迫害を正当化する白人は、公民権運動を経て考え方を改めるべき存在になった。

 そして1955年、仕事帰りのローザ・パークスはバスの白人用座席から立ち上がりませんでした。長く苦しい公民権運動を経たのち、黒人差別の諸制度は廃絶され、トイレの使用について、「白人男性と黒人男性」「白人女性と黒人女性」の間に法律上の垣根がなくなりました。
現在でも人種差別は様々なかたちで残っていますが、差別意識をおもてに出すことは論外とされています。なぜなら、「人間はみな平等だ」という考えが、アメリカという範囲を超えた人類的な universal truth になっているからです。この大義名分に挑む者はそれこそが差別者だからです。

ところで。
「MtFトランスジェンダー全員が女子トイレを利用する権利があると主張すること」は、この黒人差別問題と果たして似ているでしょうか?

 表面的には、「あるトイレを使える人と、使う権利が無いとされる人がいる」ということにおいて似ているように見えます。
そしてTrans Rights Activistたちは、「ペニスのある女性もいます、という方向に皆が考えを改めれば解決する」、つまり考え方の刷新の問題なんだ、と思っています。

ですが。
この問題は、関わる人間集団の性質も歴史的経緯も、まるで違うのです。それを見ない考えない人たちだけが、上記2点に安直に飛びついて、身体的女性が訴える安全への意志を踏みにじることができるのです。

 では、MtFトランスジェンダーの女子トイレの使用について、上記の黒人差別問題とポイントで比較してみましょう。

1.問題は女性の側にあったか? 

いいえ。
むしろ女性たちは、男性かと思われる人がいても、気をつかったりうろたえたり、トラブルを起こしたくなかったりで、通報もあまりできないくらいでした。
ですが、少なくともこれまでの女子トイレは、性犯罪者男性の侵入を拒む仕組みで安全を保ってきました。問題があったら通報することができました。
ここに「性自認が女性であれば、見かけ上はどんな人であっても女性」というルールを持ち込めばどうなるでしょう? セキュリティホールができ、身体的女性も彼女らと同じ立場になったGIDの人たちも、性犯罪の危険に晒されます。問題を起こしてきたのは身体的女性たちではないのです。

2.女性がトランスジェンダーを迫害してきたことが問題だったか?

いいえ。
むしろ、男子トイレでこそMtFトランスジェンダーは性暴力を含む暴力を受けてきました。男性こそがMtFトランスジェンダーを迫害してきたのです。

3.MtFトランスジェンダー排除を正当化する”TERF”は、性自認至上主義の正しさの前に考えを改めるべき存在になったのか?

いいえ。
女子トイレが、変化しうるしfluidでもありうるgenderでなく、身体的性別であるsexで分けられた空間である、という認識は、日本で広く常識となっています。Trans Rights Activistsは、この常識が間違っているという挑戦をしたいのでしょうが、少なくとも現時点で、一般の人たちの常識はまだ変更されていません。

 2018年末以降、「”TERF”が声を上げてMtFトランスジェンダーが女子トイレを使いにくくしていることが差別であり迫害であり問題だ」という主張がTrans Rights Activistsによりなされてきましたが、ここで重要なのは、トランスジェンダーはアンブレラターム(包括的総称)だということです。
女性として生きているGIDの人を女子トイレから排除したいという身体的女性からの声はほとんど無いのです。アンブレラタームだからこそ、「そのうちのどこまでならば女子トイレで受け入れ可能か」を、女性の方からラインを引かねばなりません。重ねて言います。女性の方から、です。なぜなら、これは女性の領域についての問題だからです。


それなのに、(女子トイレを使う気などまったくない男性学者たちも含めた)学者たちが、「トランスジェンダーの定義を求めることが差別」と言って、一般の女性たちにこのライン引きをさせまいとしていること、意見を言わせまいとしていること、それこそが大問題なのです。

 なぜ私がこの文において、黒人差別の歴史を何行もかけて記述したのか。それは、各々の問題には、各々の歴史の重み、流された血、求めた未来があったことを想起してほしかったからです。

 これが女性差別だったとしても、その歴史は一言で言えるものではありません。女性参政権運動の苦闘だけではありません。今に至るまでの、性暴力被害、性的搾取被害、職場で家庭で恋人との関係で、女性たちは理不尽な扱いを受け、多くの人はそれをはねのけることもできず、しかもそれは自分とその相手だけの個人的な問題だと思わされ、他の女性と共闘することもできずに苦しんできました。

 MtFとFtMのトランスジェンダーが「男性に」加害されてきた歴史にも、やはり言い尽くせない重みと苦しさがあったのではないでしょうか。

 その各々の問題の重みを斜めに見てわかった気になって、飛びつきやすい、一見共通点と見えるものに飛びついて、「TERFがしていることは黒人差別と同じ」と言うとき、その言葉は何を踏みにじっているのか。それは私たち身体的女性の苦しみと歴史であり、黒人の人たちの苦しみと歴史です。こんなふうに他人の苦しみを叩き棒にして恥じない厚顔さは、いったいどこから来るのでしょうか。

 本当の加害者が誰なのかということすらわきまえない言説は、ただの知的怠惰です。そして学者たる者がそのような知的怠惰を批判できないときに、そのツケを払わされるのは市井の人間、この議論で言うならば市井の身体的女性たちです。

 ジェンダー関連の学者の方たちには、もっと互いの主張を詳細に検討しあい、活発な議論をお互いで行っていただきたいと思っています。私は、学者の方々の知性と蓄積が、現在は身体的女性たちに「その場を譲れ」と要求する方向にしか使われていないことを、深く憂慮しています。そして石上卯乃さんを批判したことで逆に学者の方たちこそが注目されるようになったことを、知っていただきたいと思っています。

※この文は8月29日にWomen’s Action Networkに遠山理花の名前で投稿した文に加筆・修正したものです。