トランスジェンダリズムの問題点

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トランスジェンダリズムとは

トランスジェンダリズムとは、性別を自己決定できるという考え方だ。

セルフIDとは、性自認や自己申告を根拠に名乗った性別へ法的にも変更できるようにするという考え方だ。性自認の定義はよくわからない。他人からも見えない。だから、性別の基準にしてはいけない。

トランスジェンダーとは、出生時に割り当てられた性別とは異なる性別の性自認・ジェンダー表現 のもとで生きている人々の総称(性同一性障害者を含む)。*脚注1

トランスジェンダリズムは、「女性」という言葉を書き換えてしまう。

今、女性と男性は、体の違いで分かれている。私たちは骨の形から違う。肉付きや骨、声、肌、五感のすべてを使って、誰が女性で誰が男性か区別することができる。

生まれたとき、取り上げた医師は、外性器の違いで、私を女性だと母子手帳に記し、それをもって出生届を出して、私は法的にも女性になった。

まず、体のありようがある。性別は、現実に存在する。それを反映して、周囲が、その人を女性として扱っていく。

TRA(Trans Right Activists)は、その逆のことを私たちに強いる。身体の性別を無視する。

身体的男性がいても「彼女」の性自認が女性ならば彼女と呼ばなくてはならない。

そうはみえなくても、「彼女」あるいは「彼」の性自認を尊重して、その人を「女性」あるいは「男性」として扱うようにTRAは求める。

現実の逆のことを強いられる。性自認は目に見えない。それが何なのかもよくわからない。よくわからないものを尊重しなくてはならないのは間違っている。周囲がその人をある性別として扱っても、その人のもともとの性別は変わらない。

 

ジェンダーについて

女性と男性を分ける概念には二つある。体の違い(セックス)と社会的役割(ジェンダー)の違いだ。今、ジェンダーの意味は、多様になっているけれど、この文章の中では、ジェンダーとは社会的役割の意味で書く。

私の体は、女性の形をしている。周囲からそれを学んだ。だから、それを追認する形で、私は自分の体を見て、自分の身体は女性だなと思う。

そのため私はシス女性だと言われる。

シス女性とは、身体の性とジェンダーとが一致している女性のことを言うらしい。シス女性と呼んだ相手のことを女性のジェンダーを受け入れて、適合していると考えているようだ。

だが、固定的な性別役割分担や、ジェンダーを完全に受け入れている女性なんているのだろうか。

 

シス女性という呼び方について

私はシス女性と呼ばれたくない。勝手にそんな箱に入れないでほしい。私には、自分が女性だということにいろいろな思いがある。その思いをなかったことにして、すんなりなじめているみたいに、女性たちの悲喜こもごも、凹凸をさらっとないことにしないでほしい。そんなレッテルを貼らないでほしい。

身体的女性で、完全にジェンダーに適応できている人なんて、ほとんどいないと思う。

私は、思春期の頃、自分の身体が変わっていくことがつらかった。子宮を取ってしまいたいと思ったこともある。太りたくなくて、筋トレばかりしていたころもある。それでも筋肉はあまりつかなかった。

女性として、期待される社会的役割にもなじめなかった。

しかし、時間をかけて、違和感を飲み込んで、違和感を含めて、それが自分だと思うようになった。

女性として生きていれば、他の女性たちも、自分の性別に納得なんていっていないとわかる。それがわかるようになったので、私は違和感を安心して飲み込んだ。

女性の持つ、月経の不快さ、担わされた妊孕性、それを理由にした学業や就労に関する不利益、文化的にも弱くあれという圧力があり、優しさを搾取されていくこと。

それは普遍的な苦しみだから、私たちは同じ言葉で語り合うことができた。

  

女性差別について

私たちは女性として生まれ、女性として差別され、同じ仕組みで搾取されてきた。

それに抗うためには、「女性」というカテゴリーを使って語ることが必要だ。

私たちは、体の特徴のために、区別された。

もし、女性という言葉がなくなってしまったら、女性差別について語ることができなくなる。

すべては個人的なことだと言われてしまい、女性の身体を持つ人たちだけにある共通した経験について語ることができなくなる。

女性という言葉がなくなってしまうと、統計をとれなくなる。

例えば、今、犯罪の多くは、男性が行う。性犯罪のほとんどすべては男性の犯行だ。

女性という言葉が書き換えられ、男性が女性を名乗れるようになれば、その統計も崩れて、女性の犯罪率が増えてしまうだろう。

女性の貧困も、覆い隠されてしまう。女性の中に男性が混ざれば、収入の平均は上がる。女性の政治家の数も、トランス女性が増えれば、見た目上増える。これがセルフIDの問題点だ。

女性差別が見えなくなってしまう。

見えなくなれば、対処もされなくなる。

こういうことがあれば、私たちは女性差別について把握できなくなってしまう。

そして、それは現実になり始めている。

この前にあった、厚生省のLINEのアンケートは、自分が思っている性別での回答を求められていた。これは、性自認を基にしたということだ。だから、私はこのことを恐れている。

もし性別適合手術なしに戸籍が変更できるようになれば

もし、性別適合手術なしで男性が女性を名乗るようになれば、そして、それが法律上にも認められたら、私たちには彼らを女性専用スペースから拒むことができなくなる。身体が男性で、法的には女性なら、法律が優先される。

身体的男性でも法的な女性ならば、女湯や女子トイレから出て行ってもらうように言えない。

法律は重要だ。法律によって、私たちは守られている。女性が男性の危害から守られる手段の一つに、法律がある。

例えば、私はヘルパーさんに来てもらっている。私は男性が苦手なので、女性を頼んでいる。けれど、もし、体が男性であるのに法的には女性、という人が来た時に、私はその人を拒めないだろう。無理に拒めば、「不当な取り扱いを受けた」と裁判を起こされる可能性がある。

女性用のトイレではよく性犯罪が起きる。今は、男性は入れない。そういう建前になっている。建前というのは大事だ。それがあるから、もし、違和感のある人が入ってきても、私たちは人を呼べる。

でも、セルフIDが現実になったら、私たちは、人を呼びにくくなる。

エミコヤマ氏は、性犯罪者とトランス女性を見分ける方法は性犯罪を起こした人が性犯罪者だ、という趣旨のことを言った。これは、事前には見分ける方法がないと言っているのと同じだ。

しかし、性犯罪が起きてから、その人が性犯罪者だとわかっても遅い。エミコヤマ氏には、それがぴんと来ないんだろうか。性犯罪に遭った人が、どんな風にどんな痛みを得て、どれだけ精神を病むか、見たことがないんだろうか。苦しみを軽く見ている。性犯罪に遭うのはほとんどが女性だ。それを自分事としてとらえられないのは問題だ。

 

女性専用スペースの必要性について

女性専用スペースができた経緯は、だいたい、男性が女性に加害を行ったことを踏まえている。

女性専用スペースができる前は危険だったが、今は少し安全になった。

男性には入れないという建前が大切なのだ。

子ども、障害者、お年寄りも、男性がいたら、おかしいと思って、人を呼べばいいとわかるし、そう教えられる。でも、建前、つまりルールがなくなれば、それらの弱者を守るものがなくなってしまう。

ルールはシンプルであるべきだ。いてはいけない人がいたら、人を呼ぶというルールが必要だ。

目の前にとがめる人がいなくても、たいていの人はルールを守る。ルールを守らない人からは逃げないといけない。でも、TRAの活動はルール自体を壊してしまう。

私は、知らないうちに、女性に関する定義や、ルールを勝手に変えられたくない。誰にも、そんな権利はない。特に男性にはない。

 

女性という言葉について

私は、女性と男性を区別するものは二つあると思っている。

一つ目は、妊娠する機能があるか、妊娠させる機能があるかの違いだ。

もう一つは、生まれてからの経験だ。

生まれてからの経験の蓄積については、大いに語られてきた。

男性は、資本をふんだんに与えられている。大学進学率も高い。収入も多い。自尊心も高い。

人間として、素晴らしい特質とされていることは、ほとんど男性ジェンダーに振り分けられている。

女性ジェンダーは、弱々しくて、自己主張せず、献身的であって、勉学よりも感情面で優れているはずだ、とされている。

私たちは生まれてからずっと、男性の庇護下にあるべきように育てられるし、一人で生きられないように、収入をわざと低く設定されている。

私たちは、それに苦しんできた。その苦しみを語るためにそれを「女性」の苦しみだと名前を付ける必要がある。

もし、女という言葉をなくしてしまえば、ジェンダーが消え、差別も消えると思っている人もいるみたいだ。

実際に、トランスジェンダーのために、履歴書の性別欄をなくした人たちがいるそうだ。でも、それによって、女性差別がなくなるかというと、そんなことはないだろう。

むしろ、就労時の、男女雇用均等法をすり抜ける役に立つだろう。

女という言葉、女という性別欄、それらを消していっても、私たちには体が残っている。体の違いを見つけられたから、私たちは差別されている。

体の違いをないことにしても、見ればわかることだから、私たちの身体に紐づけられた名前がなくなってしまっても、妊孕性にちなんだ差別はなくならないだろう。

必要なのは、女性に合わせた社会設計なのであって、社会的性別に合わせて、女性を書き換えることではない。

私は、私と同じように女性として抑圧されてきた歴史を背負わない人を、女性とは呼ばない。

人を妊娠させる能力のある人を女性とは呼ばない。

私が就職したいときに、私が男性を名乗っても、私の給料は男性並みにならない。

女性になりたい男性が、男性としての収入を確保したまま、女性になれる、ということが、どれだけ理不尽なことだろうか。そしてそれはすでに現実に起こっている。

 

 

ジェンダーロールの強化

フレディ・マコーネルさんのように、妊娠する父、射精能力がある母、それは世の中を混乱させる。そういうものを「多様性」「先進的」とキラキラしたパッケージに包んで認めさせようとするのが、セルフIDだけれども、これも現実に起こっている流れだ。

私は男が女になりたがれば、それはジェンダーロールを強化すると思っている。

体の違い(セックス)以外に、女性と男性を分けるのはジェンダーだけだ。

もし男性が女性になりたがるとしても、体が違う以上、ジェンダーの後追いする以外なにもできない。

もちろん私は、男性が女性ジェンダーをまとっても、男性が女性になることはできないと考えている。それは、男性がいう「女性の経験」というのは、私が経験している「女性の経験」とは全く違うものだと思っているからだ。

差別が体の違いから端を発し、それに基づいて、私たちの経験に差があるのだから、その経験をしないまま、女性ジェンダーを演じることも、やっぱり不可能だと思っている。

違っていても、歩み寄ることが大切だ

トランスセクシュアルの人が、自分たちの身体を手術で変えたとき、私はその人たちの経験はわからない。共感できないという意味じゃなく、私はそれを本当の意味では経験できないから。

私の経験と、その人の経験は違う。生まれてから女性として経験したことと、生まれてからトランスセクシュアルとして生きたこととは重ならないからだ。

でも、私は、その覚悟を理解したいと思う。ただ、その時、私の生まれてから背負ってきた女性としての歴史をまた理解してほしいと思っている。

厳密な意味で、私たちの身体は違うけれど、そんな人となら、歩み寄ることができると思っている。

男性には女性のことを決める権利はない

トランス女性は女性です、というスローガンが始まってから、私はずっとTERFと呼ばれてきた。TERFとは、トランス排除的ラディカルフェミニストのことで罵倒に使われる言葉だ。

それは、いくつかのブログを書いたこと、トランス女性の定義に懐疑的なこと、性犯罪被害者の立場から、防犯面での問題があることを指摘したことが理由だ。

二年前に起きた、左翼男性からの罵詈雑言は忘れられない。私は驚いて、おびえて、苦しんだ。

そして、その苦しみのことも馬鹿にされた。

男性には、女性のことを決める権利はない。でも、左翼男性は自信満々に、そんな権利があるかのようにふるまった。正義の錦が自分たちに翻っていたから。

誰でも、好きな役割を演じ、好きな服装をして、不利益な取り扱いは受けないでいられるべきだ。

だけど、それは、性別を変えるのではなくて、ジェンダーロールの見直しから始まるべきだろう。

*脚注1:性的マイノリティの権利保障をめざして(Ⅱ)―トランスジェンダーの尊厳を保障するための法整備に向けてー より

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トランスジェンダリズムの経緯と発言録

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