松谷 マヤ
トランスジェンダリズムは身体的女性への植民地主義だ、と考えるといろいろなことがクリアーに見えてくる。
下記は性別を法的に変更することが既に容易になっている諸外国の事例を踏まえてのことなので、「日本はまだそうではない、杞憂だ、言いがかりだ」という人もいるだろう。
しかし、日本学術会議の提言の作成に携わった奈良女子大学の三成美保教授は、こちらの番組(現在は短縮版のみ公開)で繰り返し、日本も性自認を人の性別とするという面で海外並みにならなくては、という意味のことを仰ったのだ。
日本に法的な性別移行を容易にする制度を導入しようとしている人たちの意識が「海外並み」を目指すのである以上、既に導入済みの諸外国で起きていることを日本と無関係のこととして切り捨てることはできない。
以下、きつい言葉を使うことになるが、私は身体的女性の権利を侵害しないGID(性同一性障害)の人たちのことは尊重している。
女性(female)という身体的性別を植民地にするかどうか、そこが私にとっては重要だからだ。また、私とは違う立場違う考え方によってトランスジェンダリズムに反対している人たちがいることも理解している。私の考えは、あくまでも一つの見方、一つの意見である。
トランスジェンダリズムを身体的女性への植民地主義とすれば、以下のように見ることができる。
植民地だから宗主国の人間は、
①領土を奪う。
女性専用スペースの利用の権利を主張し、女性が安心して過ごすことが前提である無防備になる場所にセキュリティホールをあけ、加害意欲を持つ男性の侵入も容易にさせる。
植民者が奪った場所に地図上で印をつけるのと同様に、女子トイレでの自撮り写真をウェブにアップロードする。女湯に入っていることまでアップロードする。
女性専用スペースが事実上の男女共用になったならば、女性は安心して外出したり外で働くこともできなくなる。混浴温泉がほぼ男湯になるのと同じことだ。
②資源を奪う。資源として奪う。
女性の地位向上に向けられるべき社会的な意識や配慮を奪う。男女平等という言葉を捨てジェンダー平等と言うのは、そういうことだ。
女性の身体を自分の前に無防備に置かれるべき資源として扱う。レズビアンへの「MtFトランスジェンダー(男性として生まれて女性になろうとする人)も同性として性的指向の対象に含めよ」という圧迫は、そういうことだ。
③地位を奪う。
女子スポーツにMtFトランスジェンダーが参加すれば、体格の面で有利になることは明らかで、その結果、女性のアスリートとしての名誉と称賛を奪い、奨学金を奪う。政治の場で女性に割り当てられていた枠も奪う。
④言葉を奪う。
日本もかつて、沖縄や植民地にしていた朝鮮で方言札を使用していた。学校の生徒に対して、母語を使うことを罰するために用いられたものだ。
現代の世界において、womanは注釈なしでは使えなくなりつつある。 female(生物学的女性)はトランス差別的な敵意に満ちた語として扱われる。
女性はvagina owner (ヴァギナ所持者)とか言われ、妊婦はpregnant womanではなくpregnant person(妊娠した人) と呼ばれ、「ペニスのある女性もいます」と平然と言われる。子どもがそう教育されている国も既にある。
ミスジェンダリング(当人のアイデンティファイする性別で扱わないこと)は刑務所行きになる国もある。
⑤定義する力=権力を奪う。
「女性」を身体でなく頭の中のイメージ(=ジェンダー表現、性自認)優先で定義し、身体をモノにすぎないとさせる。そうした上でそのイメージを従来的な男性によるファンタジーに添わせる。そのことに疑問を差しはさませない。これは女性からの自治権の剥奪だ。そしてモノにすぎない身体は尊重しなくてもよくなり、性被害を受ける女性たちにこの上なく冷淡になれる。
女性の定義を新しく決めてしまうことで、統計的真実も従来との連続性を失う。どんな数字が出されたところで、その数字はこの世界の真に示すべき現状を示さなくなる。
2020年6月、「女性を再定義する」と日本女子大の先生は仰った。歴史の一ページを書いているようなワクワクする気持ちだったのだろうか? 私にとってはディストピアが目の前に現れた瞬間だった。
ジェンダー学界隈のエコーチェンバーの中では、インサイダーだけで「女性の新しい定義=『トランス女性は女性です』」は着々と界隈の新常識化されていて、一般社会に向けての既成事実化に進んでいたのだ。
そして植民地というものは、
・もともと住んでいた現地民を理解し尊重すべき隣人ではなく、黙らせるべき存在として扱う。だからごく当然に現地民を二等国民とし、新方針・新政策による不利を被っても仕方ない者として扱う。
・長期的な見通しで考えるよりも、今このとき最大限①~⑤を奪うことに集中する。
・宗主国の文化(思想や宗教を含む)やライフスタイルを、現地の従来のそれよりも高尚なものとして位置づける。
・宗主国にとって都合の良い教育しか現地民に与えず、そうして育った現地民たちに植民地を統治させる。
・植民者の未来世代にまで現地民を抑圧して植民地を維持することを課し、現地民は抵抗闘争を何世代にもわたって続ける。
現代人として歴史から学んできたはずだ。植民地は必ず失敗する。日本はそうだった。イギリスもフランスもスペインもポルトガルもそうだった。
他国を植民地支配したならば、その支配の終わった後にその国の人民とまともな関係を築くことがどれほど難しいか、日本は韓国朝鮮との関係でよく知っているはず。歴史を見ないことにして過ごしていても、植民地支配していたという歴史は必ず都度都度その顔をのぞかせ、良好だったはずの関係も吹き飛ばす。
植民地支配が一見永続的なものに見えても、それは植民地支配者自身に恐ろしい魂の変質をもたらすものだ、ということも知っているはず。これはマルチニックの詩人エメ・セゼールの有名な一節。
「植民地化がいかに植民地支配者を非文明化し、痴呆化/野獣化(アブリュティール)し、その品性を堕落させ、もろもろの隠された本能を、貪欲を、暴力を、人種的憎悪を、倫理的二面性を呼び覚ますか、まずそのことから検討しなければならないだろう。」
「トランス女性は女性です」を唱える人たちは、しばしば「トランス女性」こそが被抑圧者・抵抗者なのだ、というイメージで語るが、実際にやっていることは①~⑤だ。植民地主義者とかわらない。どんな言葉で糊塗しても誤魔化しきれるものではない。
①~⑤は現実におきていることだ。だから身体的女性はautonomy(自治権、自主性、自律性)のために抵抗闘争をする。
今の闘争状態を終わらせるには、植民地主義的な①~⑤をやめ、「トランス女性は女性です」と押し付けるのをやめるしかない。
MtFトランスジェンダーと身体的女性は、本来ならば互いに、人らしく生きる道についてを学びあう穏当な隣人関係を築けたはずなのだ。
そこに立ちかえることは、現段階の日本ならば、まだ間に合う。