森田成也
以下の論考は、私が2021年2月10日に『週刊かけはし』の編集部に送った投稿である。2月8日付の同紙に今は亡きふじいえいごさんが病床から書いて掲載された手紙に呼応して書いたものである。彼のこの勇気ある行動を無駄にしてはならないと思い、急いで書いたものだが、結局、『週刊かけはし』には掲載されなかった。この問題をめぐって内部で意見が割れているからというのが理由だった。投稿からすでに半年以上が経ったので、ここに公表しても問題ないだろう。今回、発表するにあたって、小見出しをつけるとともに、多少の加筆と修正を施している。
2021年2月8日付『週刊かけはし』に掲載されたふじいえいごさんの投稿に賛同する立場から投稿します。
ふじいさんが書いておられるように、男性が「自分は女性だ」と自認ないし自称すれば、あるいは「自分の心は女性だ」と主張すれば、実際においても女性として扱われるべきであるとする思想(性別の自己決定論)がトランスジェンダリズムです。強い身体違和を抱えてホルモン治療や性転換手術(現在は性別適合手術と呼ばれている)を受ける人々だけでなく、とくに身体違和を持っていなくても、したがって何らかの医療的な措置を受けていなくても、女性であると自認ないし自称すれば女性として扱われるべきで、そうしようとしない者はすべて差別主義者(「TERF」ないしトランスヘイター)であるというのが、このトランスジェンダリズム(性自認至上主義)です。
トランスジェンダリズムはフェミニズムとも、どんな人権運動ともあいいれない
この思想は次の2つの点で根本的にフェミニズムとも人権論ともあいいれないものです。
まず第一に、これは歴史的に差別され抑圧されてきた性別集団(sex group)としての女性という身体的・物質的存在を単なる「気持ち(feeling)」や「性自認」によって規定されるあやふやな概念構築物とみなすものです。
これがいかに途方もないことであるかは、性別以外の被抑圧カテゴリーに置き換えるならばすぐにわかります。たとえば、アメリカ合衆国で黒人であるということは、過酷な奴隷制度のもとで虐げられてきた歴史的過去を有し、今日なお日常的に暴力と差別を受け、しばしば警察官に撃ち殺される恐怖の中で生活することを意味します。そうした状況の中で、アメリカ白人として生まれ白人として育った人物が、すなわち白人としてのあらゆる社会的・人種的特権を享受してきたものが、「自分の心は黒人だ」と称して、髪の毛をドレッドヘアーにし、顔を黒く塗り、ストリートファッションで身を固めて、「俺を黒人として扱え、さもなくば差別主義者だ」と言い出し、少数人種のためのさまざまな制度やアファーマティブ・アクションを利用し始めたらどうでしょうか? 明らかにこれは許しがたい簒奪だとみなされるでしょう。さらにこの「トランス黒人」が、黒人として生まれ育って差別と抑圧を受けてきた人々に対して、「君たちはシス黒人にすぎない。シス黒人はシス特権を持っているので、トランス黒人に対しては抑圧者であり、マジョリティ」だと言い出したら、どうでしょうか? これほどバカげた途方もない差別的主張は存在しないと思うでしょう。ところが、それが性別になると、突然そうした主張が全面的に正当だとみなされて、マイノリティ運動の支持者や左翼がこぞってそれを支持し、それに異論を唱える女性たちが逆に差別者扱いされるのです。これほど理不尽なことがあるでしょうか?
第二に、女性用の公衆トイレや公衆浴場、女性用の更衣室や脱衣所、女性のスポーツチーム、女性用の刑務所や避難施設などは、女性の独特な身体構造とその相対的に脆弱な身体性にもとづき、それを保護するために存在します。女性の性的・身体的安全性は何よりも女性専用のこのような公衆施設によってはじめて守ることができるのです。自認や自称が何であれ、これらの施設は身体性にもとづいて区別されなければ、女性の人権は守られません。これは人種と根本的に異なる点です。人種においては、人種で分離すること自体が差別を意味するのに対して、性別においてはその逆に、女性の身体性が関わる場面では性別で分離しないことが差別を構成します。たとえば、人種別のトイレはまぎれもない差別ですが、性別で分けられたトイレは女性の人権を守るものです。つい数十年前まで、この日本でも男女別のトイレは多くの公衆施設に存在していませんでした。女性専用トイレは女性たちの長年の闘いによって勝ち取られた権利であって、けっして「シス特権」などと揶揄されるものではありません。トランスジェンダリズムを支持する人々はしばしば、人種別施設の問題を持ち出して男女別の施設を非難しますが、まったく的外れです。
このように、性別が人種と共通する点からも、人種と区別される点からも、トランスジェンダリズムは根本的にフェミニズムとも人権論ともあいいれないのは明らかです。それは究極のミソジニーであるというだけでなく、さまざまなマイノリティのあらゆる権利運動を根底から破壊するものです。自称・自認だけで、支配的なマジョリティ属性に属する人間が被抑圧カテゴリーに移行できるとするわけですから、これほどマイノリティを馬鹿にした思想も存在しません。したがって、それは、あらゆる左翼、民主主義者、人権擁護者、フェミニストが徹底的に闘うべき反動的な思想であり運動なのです。
なぜ左翼とリベラル派はトランスジェンダリズムに屈服したか
ではなぜ、今日の世界で、他ならぬ左翼(リベラル派だけでなく急進左翼も)がトランスジェンダリズムと闘うどころか、それを率先して支持し、身体女性を迫害する立場に立っているのでしょうか。
いくつか理由が考えられます。
まず第1に、進歩派・左派の当然の価値観としての「多様性の尊重」「マイノリティの権利擁護」という常識が悪用されていることです。生物学的に男性であっても男性らしい格好や生活スタイルを取らない人でも個人として尊重されるべきこと、トランスセクシュアルやトランスジェンダーであることを理由に職場や教育などで不当な差別を受けるべきではないこと、これらはすべて当然のことです。しかし、トランスジェンダリズムが主張するのはこうした水準(個人の尊重としての自由権)から完全に逸脱して、女性を自認ないし自称する人はすべて法的・社会的・制度的にも「女性」と認めなくてはならず、そうしないものは差別者として排除されるべきであると主張しています。これは「多様性の尊重」ではなく、多様性の根本的な破壊であり、「マイノリティの権利擁護」ではなく、女性というマイノリティへの攻撃です。「多様性の尊重」や「マイノリティの権利擁護」という入り口から入ってきたこの全体主義思想は、多様性を破壊し、他のマイノリティを解体しつつあるのです。
しかし第2に、より本質的な理由として、左翼の中でもいまだ女性は、本当の意味で被差別集団・被抑圧集団とは結局みなされていないという問題が存在します。多くの左翼は性差別に反対だと主張し、たとえば森喜朗のような保守派の発言に怒りを表明しますが、その多くは反自民という政治的企図にもとづくものです。左派のあいだでも、女性は結局、人種的・民族的少数派と(少なくとも)同程度の被抑圧集団であるとはみなされていないようです。人種集団には許されていないこと(自認による抑圧集団から被抑圧集団へのトランス=移行)が、性別集団には許されていること、それどころか大いに推奨され、賛美されているという事実そのものが、被抑圧集団としての女性が受けてきた抑圧の歴史(選挙権剥奪から慰安婦制度や魔女狩りに至るまで)と現在の深刻な現実(低賃金、不安定雇用、家事労働の押しつけから、買春、セクハラ、レイプ、フェミサイドに至るまで)を徹底的に軽んじ、ないがしろにするものです。
左翼の多くは、保守派のようにわかりやすいストレートな女性差別をするのではなく、「トランス女性」(つまり身体男性)を「最も抑圧された集団」扱いするという回り道を通じて女性差別に加担しているのです。これはちょうどセックスワーク論において、「セックスワーカー」の権利を擁護するという建前で、買春者である男性の権利を擁護するのと同じからくりです(実際、セックスワーク論を支持している「人権」団体の多くはトランスジェンダリズムをも支持しています)。
第3に、この数十年間にアカデミズムの左翼文化や一部のフェミニズムにおいて、性別(sex)を「ジェンダー」に還元ないし解消する動きがポストモダニズムの支配的雰囲気のもとで不可逆的に進行してきたことです。「ジェンダー」という言葉はきわめて多義的で、使う人によってさまざまなものを意味しますが、それを一種の社会的・文化的構築物とみなしたうえで(これはジェンダーの一定義でもあるので、それ自体は間違いではありませんが)、そもそも男女の本源的な性別など存在せず、それもまた社会的に構築されたものであるという議論がこの10~20年間にしだいに強力になってきました。「性別二元論反対」というと進歩的で先進的に聞こえますが、実際には、非科学の最たるものです。
生物学的性別は確固たる物質的現実であって、社会的構築物などではありません。マルクス主義は、自然的・物質的現実を踏まえつつ、その歪んだ解釈を排するのであって、自然的・物質的現実を否定するのではありません(エコロジーを重視するエコ社会主義の思想は、まさにこのような自然的・物質的現実の優位性にもとづいています)。ところがトランスジェンダリズムはその反対のことをします。この思想は、身体的・生物学的性別の現実性を否定する一方で、生物学的に男性でもピンク色やスカートやお化粧や長い髪が好きだから実は女の子だというような発想をします。つまり、性別の物質的現実を否定しつつ、社会的構築物にすぎないジェンダー(社会的・文化的な支配的規範としての性)をあたかも生得的な何かであるかのように扱うのです。これほど転倒した観念論もないでしょう。
暴力化するトランス活動家
トランスジェンダリズムの問題はこれだけにとどまりません。世界中のトランス活動家(TRA)たちは、自分たちの主張に従わない女性たち(と一部の男性)に対して、「TERF(Trans Exclusionary Radical Feminist)」とか「トランスフォーブ」「トランスヘイター」とレッテルを貼って攻撃し、暴力で脅し、「俺のペニスを舐めろ(suck my dick)」とか「ターフを犯せ(fuck TERFs)」「ターフを殴れ(punch TERFs)」「ターフを殺せ(kill TERFs)」などと公然と性暴力や殺害を扇動しているのです。保守派や右翼の女性たちに対してさえ、「ペニスを舐めろ」とか「犯せ」などと左翼の側の人間が呼号したとしたら、そのような人物は左翼陣営からいっせいに非難され、ただちに追放されるでしょう。ところが、このような性暴力的攻撃がトランス活動家によって他ならぬフェミニストや左翼の女性たちに向けられると、ほとんどの左翼やリベラル派は見て見ぬふりをするか、それに積極的に加担するのです。
イギリスの著名な作家J.K.ローリングさんが2020年6月にリベラル・左翼陣営のトランス活動家たちやそのアライたちからいっせいにこのような性暴力的攻撃を受けたとき(攻撃者の中には、J.K.ローリングさんとTERFをグラーグに送れとかガス室に送れと扇動した連中さえいた!)、トロツキストを含め、彼女を擁護した左翼はほとんど皆無でした。一人の勇気ある進歩派の女性が全世界の何千・何万というミソジニストから攻撃されているとき、新旧左翼は彼女を擁護する勇気をひとかけらも持ちあわせていなかったのです。何と恥ずべきことでしょうか。
トロツキストはかつて、スターリニストによる世界的な弾圧と迫害のもとでもその正義の旗を降ろしませんでした。その偉大な伝統を復活させる必要があります。たとえ、既存の左翼陣営から「TERF」や「トランスフォーブ」とののしられても、女性の人権と安全を断固として守り抜くことが必要であり、「TERF」とか「ヘイター」と攻撃されているフェミニストや市井の女性たちと断固連帯することが必要です。どうか勇気を奮い起こし、正義を貫いてください。
2021年2月10日(8月修正)