何が左派をトランスジェンダリズム推進へ駆り立てているのかーージョナサン・ハイトの説を手がかりとして

石上 卯乃

 現在トランスジェンダリズム(性自認至上主義)を推進しているのは、日本でも世界の他の国々でも左派だ。だから左派の特徴を見ていくことで、なぜこんなにも強く左派がこれを推し進めているのか、その一端を明らかにしようと思う。

 性自認至上主義が短期間で大きな力を獲得したのは、何よりもこれが大国アメリカ仕込みの流行であるからだ。だから特にアメリカ社会を前提とする分析や記述を見ていくことにする。そのために、まずはジョナサン・ハイト『社会はなぜ左と右に分かれるのか』(紀伊國屋書店、2014年)を一つの手がかりにして考えてみたい。

ハイトの述べていること

 ジョナサン・ハイトは、アメリカのリベラル派の道徳心理学者で、彼自身が支持していた米民主党の大統領選挙での敗北理由の分析をきっかけに研究を進め、2012年に『社会はなぜ左と右に分かれるのか』を出した。彼はアメリカを含む複数の社会における複数の社会階層の人たちを対象に道徳観について調査した結果、いくつかのことを見つけ出している。

 以下において私は同書の内容を単純化してまとめているので、懐疑心を抱かれるかもしれないし、人間と動物は違うだろう、と反発をする人もいるだろう。しかし、これらはれっきとした研究結果である。彼は様々な根拠をあげつつ、まず、こういったことを述べている。

・人間の道徳心というものは、象(巨大で操れない、情動、無意識の部分)と乗り手(意識、言語化できている部分)の関係として示される。どちらが優勢かというともちろん象。乗り手はほぼ、象の行きたい方向に連れていかれるしかない。意識化され言語化されている部分というものは、実は無意識が既に選好していることについて、後から理屈づけをしているに過ぎない。

・社会のタイプが個人中心的か集団中心的かによって、人間の道徳心の在り方は異なる。また道徳心は、危害と公正を基盤とする道徳だけでは不十分で、それ以外の関心や美徳も考慮しなくてはいけない。道徳基盤としては、<ケア/危害>、<公正/欺瞞>、<忠誠/背信>、<権威/転覆>、<神聖/堕落>、<自由/抑圧>の6つが考えられる。

・人間の本性の90%はチンパンジーで10%がミツバチだ。つまり、ひとつの個体として自分の属する社会の中で生き延び良いポジションを獲得するための闘争によって心が形成された存在、という意味ではチンパンジーだが、一方で人は、自分の利益になるように動くのではなく、条件が満たされれば、自分の属する集団が勝利するために懸命に無私の貢献をしてしまうという意味ではミツバチだ。このミツバチへと切り替わるスイッチをミツバチスイッチと呼ぶ。

左派の独特の傾向

 ハイトは同書において左派についての独特の傾向を記している。そのなかで私が特に関心を抱いたのは以下の2つだ。

・ハイトが調査した当時において、米国の共和党の政治家は5つの道徳基盤(ケア、公正、忠誠、権威、神聖)に働きかけるスピーチをしていたが、民主党の政治家は2つ(ケア、公正)のみについてしか話していなかった。これら2つに加えて<自由>は、左派が関心を持つ分野である。無党派層や右派に話を聞いてもらうには、幅広い道徳基盤に向けた話をしないと響かないのだが、左派政治家は、左派の人たちの心に届く話しかしていなかった。

・リベラルと保守主義者が互いをどのくらい正しく理解しているかを調査した。出された項目について、「自分自身の回答」「典型的なリベラルならこう答えるだろうという回答」「典型的な保守主義者ならばこう答えるだろうという回答」をしてもらった。その結果、中道と保守主義者はリベラルがどう答えるかをかなり的確に予測していたが、自分をリベラルと考える人たちは、保守主義者の考えについて誤った予測をする傾向があった。

 「もっとも大きな予測違いは、リベラルが保守主義者のつもりで『ケア』と『公正』基盤に関する質問に答えた時に生じた。『最悪の行為の一つは無防備な動物を傷つけることである』『正義はもっとも社会に必要なものである』などの質問項目に対して、リベラルは保守主義者ならば反対するだろうと予測した」(同書441頁より)。つまりリベラルは、保守的な人たちもまた正義を求めているのだとは、理解しない傾向がある。

 このようにハイトが記した左派の特徴は、トランスジェンダリズムを広めようとする日本の左派の姿勢にも関連していると私は考える。

ミツバチスイッチのON

 この文を書く私について、「左派のことを腐すなんてやはりTERF(※1)は右派だ」と反射的に考える人もいるだろう。しかし私は、そんなふうにして、自分の仲間でなければ敵である、敵に対して勝つためには何をしてもいい、というミツバチスイッチが入ってしまうことこそを問題だと思っている。

 「女性が安全に、社会的な公正を保障されて生きるには、性自認至上主義は受け入れられない」と主張する人たちに対して、「“トランスジェンダー女性”を女性の枠から排除するな」と言ってその意見を抑え込もうとする人たちがいる。トランス権利活動家である。これらの人たちは、トランスジェンダー全体の考えや利益を代表しているわけではないが、世間にはそのことは知られていない。トランス権利活動家のうちでも特に極端な人たちは、自分たちに対立する女性たちについて、身元を暴いて晒そうとしたり、仕事に差し支えるような差別者というレッテルを貼ろうとしたり、意見を公表する場を奪おうとしたりする。

 私は、このようなことをする人たち個人の道徳性が低いからそうしているとはあまり思わない。多くの場合、自分たちの思う「良い目的」のためならば手段は正当化される、としてそのように行動しているのだろうと感じる。彼らにとって、手段を選ばずに勝とうとすることは、目的への奉仕であり、正当であり道徳的なことだと思っているのではないか。そういう考えの人が複数集まればその傾向も加速するだろうし、自分の力を悪ノリして仲間内で誇示したがるホモソーシャルな行動様式もここに関わっているだろう。

 「そんな人間たちがいるのは右派も同じだろう」と言う人もいるだろうし、たしかに党派性は左派にだけ生じるわけではない。ただ、左派は自分たちはユニバーサルな人権の側に立っているのであり、その点で間違っているはずがない、と強く考える傾向がある。だから異論を耳にしても立ち止まって考えることをほとんどしない。私自身が左派のコミュニティのなかで長年この傾向を感じてきたし、これに思い当たる左派の人も多いだろう。自分が義憤だと思っているものが、理性によるものなのか、それとも党派性に駆動されミツバチスイッチを入れられた状態であるに過ぎないのか、いまこそ個々人が考える必要がある。しかしこのマインドセットはなかなか解除できない。思考の枠組みごと、目的に向かって自動的に進むレールに乗ってしまいやすくなっているのだ。

自分たちと違う考え方をする人たちを悪魔化する

 「ケア」「公正」という道徳基盤は、ハイトが示しているように、右派左派共に尊重している。しかし、この2点および「自由」にばかり集中して自らの価値を置く左派は、自分たちの仲間以外の人たちが言う「ケア」「公正」に否定的である。相手が安全や人権にかかわる正当な主張をしていても、自分を言い負かそうとして持ち出される詭弁に聞こえてしまう。性自認至上主義に反対する女性たちが「ケア」「公正」の観点からものを言っても、トランス権利活動家とそのアライは、それらにまったく耳を貸さないどころか、女性の安全というのはただの口実だ、大義名分にすぎないのだ、と言って貶めて非難するということがおきているが、これはこの傾向の極みだと私は考える。

 左派である自分たちを批判するならばそれは「右翼でしかありえない」とみなし、反論も説明も受け入れなかったり、対立する意見を持つ人たちのことを差別者だ、差別主義者だ、差別をしたい人たちの集まりなんだ、と罵り悪魔化することは、相手を攻撃することで味方をまとめあげるための戦略としておこなっている部分もあるのだろうが、それよりも、ハイトが見つけ出したように、リベラルが自分たち以外の人間についてその道徳心を見くびるという過ちに陥った結果なのではないだろうか。

 海外、主に英語圏の国々から発される、性自認至上主義が引き起こしている問題についての情報は、今はすぐにいろいろな人たちの手で翻訳されて共有される。女性の安全や人権を脅かす制度を日本に入れまいとして、一般の人たちが努力してそうしている。しかし、トランス権利活動家と足並みを揃えているジェンダー学者は、これらの人々を宗教右派や道徳右派と結びつけて、「今まで左派と対立してきた側――たとえば統一教会――からのLGBTへの強力な妨害」の一種だ、という文脈で語り始めた(※2)。これは、身体の安全を守りたい女性たちへの侮辱であり、悪魔化であり、誤った憶測にすぎない。むしろこれらを言うジェンダー学者たちのほうが、アメリカの左派による友敵の世界観ごと性自認至上主義を日本に持ち込んでいる、という自己紹介になっているのではないだろうか。

日本で起きていることについての一つの見方

 ジェンダー学者たちの言説は日米で同じでも、日本とアメリカではベースになる社会状況が違うので、当然、違うことが起きている。アメリカでの激化した民主党と共和党の争いで先鋭的になった左派の思想を日本社会に取り込もうとしても、アメリカでの左右対立の大争点のうち、中絶の権利をめぐっての「プロライフ/プロチョイス」、黒人が社会構造的に不利を負っているという「批判的人種理論」をめぐる対立の2つは、日本では意味を持たない(※3)。その結果、左派が右派を攻める現代の新しい論理とエネルギーは、日本では性自認至上主義の推進のみに注ぎ込まれ、それに疑問を持つ左派・右派・無党派の市井の女性たちだけを全力で責め苛むことになった、と私は見ている。だからこそ日本の保守派は、全体的に見ればこのテーマではアメリカのようにリベラル側に対立的ではないし、埼玉県で起きたように、自民党が進んでトランスジェンダリズムに則った条例を作ろうとさえするのではないだろうか。

 性自認至上主義は、女性たちが――社会的な発言力を持たない層の女性たちだけが――主に被害を被る思想だ。だから、もとから女性たちの声を聞けていなかった日本の男性たちの多くは、右派も左派も、女性たちが4年間怒り続けて発信を続けているのに、この問題の深刻さになかなか気づかない。特に左派の男性のなかには、何がおきているのか正確に把握する手間さえかけないまま、自分たちの正義感や徳の高さをアピールするチャンスとして「トランスジェンダーの権利を守れ」と叫んでいる人々が多々見受けられる。

現代アメリカの「文化戦争」はすでに日本に到達している

 今年に入って、日本でもようやくキャンセルカルチャーの問題性が語られるようになり、雑誌『中央公論』と『情況』でも特集が組まれた。しかし、トランスジェンダリズムがもたらすキャンセルカルチャーやノープラットフォーミング(意見を発表する場を与えないこと)については、J.K.ローリング氏のことがあってもなお、両誌においてはキャンセルカルチャーを語る際の中心的な話題とはみなされていなかった。両誌の読者層のことがあるにしても実に残念である。

 河野有理氏は、『中央公論』2022年5月号のキャンセルカルチャー特集における「逆説的『不寛容』のすすめ」という論考で、ハイトの『社会はなぜ左と右にわかれるのか』についてこのように言及している。「この見立て自体はやや現代アメリカの『文化戦争』に規定されすぎているきらいがあるとはいえ、人間の道徳が生物学的基盤を持ちつつも、だがむしろそれゆえに一つに収斂しないという視点は重要だろう」(『中央公論』2022年5月号、80頁)。

 私は、河野氏がこのテーマを扱うにあたってハイトを取り上げていることを有り難いと思うし、この一文の後半にはもちろん同意する。しかし前半については、「現代アメリカの『文化戦争』」が学術や出版やエンターテインメントを通して日本に大量に持ち込まれているからこそ、ハイトのこの本は今の日本のキャンセルカルチャーを考えるにあたりいっそう重要なのだ、と私は言いたい。

 左側からの「現代アメリカの『文化戦争』」は、形を変えながら既に日本に到達している。たとえば女性専用トイレをなくす動きや、女性スポーツへの「トランスインクルーシブ」方針などを通して、女性だけが被害や不利を被るかたちで日本でも猛威を振るいつつある。性自認至上主義が行き渡れば、子どもたちへの安易な性別適合医療行為も広まり、子どもたちのことも踏んでいく。それは既に諸外国で起きている流れだ。「現代アメリカの『文化戦争』」は海の向こうの他人事ではない。

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 日本語版の『社会はなぜ左と右に分かれるのか』の帯文には、「リベラルはなぜ勝てないのか」とあった。この言葉に煽られて反論するために読んでみた左派の人たちも多いはずだ。書かれていたことをただの教養として読んでしまったのではあまりにも惜しい。

 左派は、「常に正しき我々」「マイノリティの味方」という自画像を左派の内部だけで褒めあって消費することをやめ、保守派に比べて自分たちに何が足りないのか、その足りなさのせいで現実社会で何が起きているのかを直視し、考えるべきではないか。ここを踏み誤れば、イギリスやアメリカで起きたように、トランスジェンダリズム問題をめぐって左派政党から党員や支持者が離れることもありうるだろう。とくに日本共産党は『しんぶん赤旗』の記事に対して「#私たちは統一教会じゃない」という声が向けられていることを重く受けとめるべきだ。

 これまでとは違う方向から、女性、子どもそして民主主義への危機が押し寄せている。これを大げさだと思う左派政党ならば、この先の展望はないだろう。野党の支持者のなかにこれまでとは違う目で政治を見はじめている人々がいる。テーマは女性の人権、とくに安全権だ。今その人たちの声を聞かねば、手遅れになるだろう。

筆者注

※1 TERFとは、Trans Exclusive Radical Feminist(トランス排除的ラディカルフェミニスト)の頭文字。「トランス女性は女性です」という運動をする側からの侮辱語。こう呼ぶことで、あたかも社会からトランスジェンダーを排除する悪意を持った人たちであるかのように見せる効果がある。しかし実際は、トランスジェンダーを自認する男性は女性の範囲に含まれるのかというテーマに関して、女性とは別の存在だ、と考えるだけの人たちのことであり、トランスジェンダーを社会から排除するという目的などは持たない。自らを肯定的にジェンダークリティカル(ジェンダーに批判的な人々)と呼ぶ。

※2 たとえばこちらのラジオ放送(荻上チキSession 10月14日金曜日「当事者が国会議員に訴えた、トランスジェンダー国会が初めて開催~注目される“トランスジェンダー問題”とは」)において、清水晶子東京大学教授は次のように語っている。

「トランス排除っていうのは、もともとは、というか宗教右派、ですよね、たとえば日本だと、非常にそのトランス排除っていうのを陰に日向に進めてきた集団として、それこそ旧統一教会の人たちとかっていうのがもうわかっていて、そういう宗教右派だったり道徳右派だったり保守派だったりっていうのが、非常に攻撃しているところに、いまのかたちでいうとフェミニストが使われてしまう。その人たちは別に女性の権利のためにとかって思っているわけではなくって、もっとより広い、いろいろな利害関係のために、全部、たとえばセクシャルマイノリティの権利も女性の権利も、あるいは人種的なマイノリティの権利もまとめて潰していこうとしているのに、そこにフェミニストが乗ってしまうことに、今の段階だとなっていて、それは非常に危惧すべきことだなと思っています」。

※3 批判的人種理論の提唱者らによる「レイシズム」という言葉の使い方と、その使い方が日本に持ち込まれつつも「浮いている」ことについては、近くFLJに投稿するの別の文で記述する予定である。