お元気ですかまたしても、……(5)

(5)おや、でもなんか今頃反論出ていますよ李琴峰氏、でもなんか、ちょっと、……。

笙野頼子

 この連載の第一回(解題二つ、エッセイと小説について 第一回)で私はこの人の名前を出さず、しかも軽く風刺しただけでした。どうやら読んではいたらしいですね?ただニュアンス伝わってる?

 ていうか最初の私の批判をしないという話はどうなったのかな?まああの時はご本人も弱っているように見えたし、なんか可哀相だから名出しもせず軽くすませました。

 だって芥川賞受賞騒動のさ中にわざわざネットに降臨するなんてねえ。或いは何か別の理由があるのかもって思ったりしましたよ。期間中は疲労やストレスも凄いだろうと。

 というのも私のような売れない系でさえ受賞待ちの時からもう、「落ちてくれ、落ちたら休めるから」と思った程、さらに決まってしまうと?次の受賞者が出るまで大変、今も覚えています。

 いきなり車の中で鼻血零したり風呂で眠ってしまって溺れかけたり、数種類の新聞に自分の顔ばかりがやたらに出ているので急にぞっとして泣いてしまったり(でもそれ自分で見ようと思ってその時には平気で買ってきたものなのに急に怖くなって)。

 なのでむしろ李氏の事を心配しましたよ。敢えて、強いて、拙文のどこがショックだったのか考えてもみました。

 例えば例の女千字文にあった、「レズビアンの一家は皆殺しにされた」という事実の報道が怖くて、それであのツイートになったのかとも。つまり?

 ご本人がレズビアンである以上同じ属性の人に対する共感性は高いはず、事件も我が事のように悲しいのではないかと。私は彼女の言葉を一種の悲鳴として聞きました。というと?

 怖い!見たくない!全部嘘よ!そんな事はなかったわ!誰も死んでいないっ!

 受賞作キャンペーン中の疲労も加わり、ショックと恐怖のあまり、むしろ多くの事実を調べもしないでそのまま感情的に否定したのだろうと。

 まあこっちは本当に迷惑しましたけど。だって海外の判例だの事件だのスポーツ報道だの、実際にあった事ばかりなのに。

 というわけで随分気を遣っていましたが、ああ、やれやれ、しかし、……。

 まったくの見当外れでした。

 と判ったのは、例の『シモーヌ』というフェミニズム入門書に、長い御文章を発表されたから。エッセイが出たのは、十二月末、半年経っています。

 まあ私の水上氏批判だって遅いですけれども、これは『文藝』が私が書いて送った水上氏への反論を出してくれなかったせいであって、……。

 李さん、或いはまさか他に出すところがなかったとおっしゃるの?

 ていうか、どうして出すべきところに出さなかったんですか?それで今頃。

 そう、そもそもこれって媒体違いですよ?

 無論先述のように、『文藝春秋』など公共性の高い雑誌に寄稿するというのはアリと言えます。しかしそれよりまず先にする事がある。それは?

 李氏はまず私の書いた媒体『文藝家協会ニュース』への反論掲載から始めるべきですよ。短い欄であっても会員ならば、ここの会員通信を使えばいいのです。批判対象の文はそこに載っていた。会員も読んでいる。どんな論争か私が何を書いたか全て知っている。応答においてこれはもっとも効率の良い方法です。例えば言い口が違ったらすぐにばれますので。

 なお、最初の批判をそれが出た媒体でまずやるべきというのはこれはけして私の作ったルールではありません。『群像』の編集長が例のブログの人の原稿を断る時に述べたように反論はまず『文藝家協会ニュース』に出すべきものなのです。会員なら普通出せるものなので。

 なのに、……或いは李氏は協会から反論掲載を断られたのか、……。

 心配した私は協会事務局のひとりに確認をとりました。すると反論寄稿の申し出はなかったとか。ただし事務局の他メンバーには確認を取ってません。

 でもね、なんで今さらそして『シモーヌ』なの?お仲間に囲まれてないと何も言えないの?

 まあ協会ニュースで与えられる反論欄は千字とか八百字の短いものですから、李氏には要約が無理だったのかもしれませんね。私には越えられるハードルだったのでやってのけましたが。

 無論、もしご本人に文章要約の技術がなくてそれで半年もかけて『シモーヌ』に出したというのなら責めるべきではない。それは無理もない。というのも十五歳からの日本語だそうなので。むしろこの人よく頑張っていますよ。受賞出来る作品を仕上げているのだから。

 例えば大学院の中国人留学生で、立派な論文を書いていても、会話、授業の聞き取りがいまいちという院生を私は大学院で教えた事あります。なので李氏がもしSNSなどで何かをうまく説明できなかったとしても、それは芥川賞の受賞資格とは何の関係もない別の問題です。同じようにまた、……。

 李氏が私のような作家は知らない、読んでない、あんな年寄りになりたくないというのも別に私には何の関係もない事です。それらはよくある内心の表明にしか思えません。

 というのも、野間賞の受賞者でありながら私の作品は英語、中国語、ロシア語、韓国語、たったそれだけしか訳されていない程で、理由は海外の日本語研究者でも困る程の難解な悪文だからなのです。なのでご縁がないというのは無理もないですし、人間、なりたくないものに無理になる必要はありません。なりたいものになろうとすればよいだけです。心からご成功をお祈り申し上げます。というわけで、……。


(6)に続く